白村江の戦いに日本が参戦した理由 倭王朝は伽耶からの渡来王朝
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1)邪馬台国(魏志倭人伝)時代の日本列島と朝鮮半島

 日本地図1魏志倭人伝に登場する2~3世紀の「邪馬台国」は、おそらく、北九州にあった諸豪族連合体国家であった。 
 「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」(魏志)
・・東に他の国があるのなら、邪馬台国は日本列島の西の外れ、即ち九州にあったということ。

  考古学的証拠などから、当時の日本列島には邪馬台国の他にも、出雲・吉備・畿内などの地域毎に、同じような諸豪族連合体国家が存在していたと思われる。
 
  魏志によれば、邪馬台国は以前男王が治めていたが国が乱れ、卑弥呼を共立することによって漸く内紛は収まったが、卑弥呼が死ぬとまた乱れ、卑弥呼の姪である台与(壱与)という14歳の娘を王にすることによってまた収まる、という様に、一枚岩の中央集権国家ではなく、指導者の力量や時々の情勢によって、合従連衡・離合集散を繰り返す、諸豪族連合体の域を出ていなかった。(戦国大名や、現代の広域暴力団のようなもの)
  また、卑弥呼の時代の邪馬台国は南の狗奴国と戦っていたように、連合体同士の抗争も頻繁で、戦争が常態となっていた。
  「國大人皆四五婦、下戸或二三婦」(魏志)
・・・・戦争が常態で、戦争の度に男が死ぬから女の数が多い。

 邪馬台国以外の連合体国家も同じようなものであったと思われ、連合体内の内紛に他の連合体や、その構成員の豪族が介入したりすることも頻繁であったと思われる。

朝鮮地図  この当時、朝鮮半島南部の馬韓・辰韓・弁韓(三韓)」も同じように小豪族が割拠し、地域ごとに緩やかな連合体を作っている状況だった。
 ただ、日本列島とは異なり、半島北部には中国直轄の楽浪郡があり、三韓地域の紛争調停役を果たしていたため、連合体同士・連合体内での大きな紛争は少なかった。
 朝鮮半島南部(三韓)の諸国と、九州の諸国とは、弥生時代開始以来活発な交流があり、時には豪族同士の紛争、諸豪族連合体同士の紛争に、朝鮮海峡を越えて相互に介入することもあったはずである。

2)楽浪郡の滅亡と倭・百済・新羅の同時期成立

 5世紀以降の畿内に本拠を置く倭王朝(大和朝廷)は、3世紀に存在した邪馬台国が発展したものではない、というのが大方の見方。
 その最大の理由は、邪馬台国には馬がいなかったのに対し、倭王朝は騎兵を持っていたこと。
   「其地無牛馬虎豹羊鵲」(魏志)
 3世紀の邪馬台国には馬がいなかったのに、5世紀の倭王朝は騎兵を持っていたということは、中国史料空白の「謎の4世紀」といわれる時代に、海外から騎兵を持った勢力が渡来してきて、九州から関東に至る倭人社会を統合したということになる。

2~3世紀の邪馬台国の事を記した「魏志倭人伝」から、5世紀の「倭の五王」のことを記した「宋書倭国伝」まで、4世紀(300年代)の日本に関する中国資料が途絶えることから「謎の4世紀」と呼ばれるが、朝鮮半島の歴史に於いても4世紀はやはり中国資料が途絶える「謎の4世紀」なのである。
朝鮮地図 その理由は、朝鮮半島北部にあり、紀元前2世紀から400年間にわたって朝鮮・倭・満州などに関する情報収集基地として機能していた楽浪郡が、313年に高句麗によって滅ぼされ、中国にはこれらに関する新たな情報が入ってこなくなったたことにある。
  それどころか、楽浪郡を保有していた晋王朝(西晋)の首都長安・洛陽が316年に匈奴によって陥落し、晋王朝は一旦滅亡、翌年南京に首都を移して再建される(東晋)が、この際に長安や洛陽に保管されていた朝鮮・倭・満州などに関する古くからの資料が消失してしまったのである。
  414年に建立された高句麗好太王碑には、391年に倭が百済・新羅を従えて高句麗と交戦したことを示す記事が見えている。
  「倭以耒卯年来渡破百殘■■新羅以爲臣民」
即ち、3世紀の魏志時代には存在しなかった倭・百済・新羅の三王朝は4世紀代(300年代)のほぼ同時期に成立したことになる。
  この三王朝の同時期成立には、313年の高句麗による楽浪郡滅亡が大きく関わっていた。
  日本の室町時代、応仁の乱によって紛争の調停者であった足利幕府の権威・権力が地に落ちたことで戦国時代が到来したように、楽浪郡の滅亡により、紛争の調停者を失った半島南部の三韓地域も戦国時代となり、10数年か数十年で馬韓地域では百済、辰韓地域では新羅、弁韓地域では加羅(任那)がそれぞれの地域を統一する盟主となったと考えられる。
  また、楽浪郡滅亡によって放出された楽浪郡生まれの中国人達が、高句麗や建国間もない百済・任那(加羅)・新羅などに雇われ、これらの国の文明化に大きく寄与した。
  そして、倭王朝の祖は、統一間もない任那(加羅)から日本列島に渡来してきたものと考えられる。

3)倭王朝は加羅からの渡来王朝

  3世紀の邪馬台国は、狗奴国などの他の国との戦いや、国内の内紛により、とても朝鮮半島に外征する余裕などなかった。
  謎の4世紀をはさんで、実在が確実視される最初の天皇は、300年代末~400年代初頭の人物だと思われる応神天皇であるが、この時代にすでに倭王朝は任那(旧弁韓)を支配下に置いており、391年~405年頃にかけて朝鮮半島に攻め込み、高句麗とも交戦している。(高句麗好太王碑)
  313年の楽浪郡滅亡から391年の倭軍大攻勢までの間に、倭王朝はいつどのようにして成立し、半島に渡って任那を攻め取ったのか?
  これは発想を逆転して、倭王朝自体が任那からの渡来王朝だったのだと考えれば、簡単に説明が付く。
 
  後に「任那」となる弁韓地域は、小白山脈という山岳地帯で東西の地域に分けられ、西側は現在全羅道、東側は慶尚道に属する。 そして、小白山脈以東、洛東江という大河以西の地域が「加羅」と呼ばれる地域である。
  (表記は史書によって様々有り、一般には「加耶」が用いられることが多いようであるが、本書では倭王武上表文に従って「加羅」としている)
  魏志三韓伝で弁韓は、「弁辰」とも書かれ、 「弁辰與辰韓雜居 衣服居處與辰韓同 言語法俗相似」(魏志) と弁韓と辰韓の区別が曖昧であるが、これはこの加羅の問題であると思われる。

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  即ち、魏志時代から、何故か辰韓と「言語法俗」を同じくする慶尚道側の加羅の勢力が、山向こうの全羅道側を支配下に置いていたため、魏志の作者は困って、このような曖昧な書き方をしたのだと思われ、馬韓・辰韓と「言語法俗」を異にする「弁韓」とは、小白山脈以西の全羅道地域の事だと思われる。
  このことは現代朝鮮語の方言地図と馬韓・弁韓・辰韓の地図を見比べれば一目瞭然である。

三韓地図朝鮮語方言地図

  また「弁辰」は鉄の産地であり、三韓のみならず倭人や満州人などもこれを頼っていたが、この鉄山があるのも加羅の方。
  さらに512年に倭は百済に対して平和裡に「任那四郡」を割譲しているが、割譲したのは西の全羅道側(弁韓)であり、東の加羅は死守しようとしている。
  これらのことから、倭王朝の祖は任那(弁韓)からというよりも、加羅から渡来してきたものだと考えられる。 

4)加羅による北九州連合体国家の「乗っ取り」

  313年に楽浪郡が滅び、三韓で百済・加羅・新羅の三王朝が成立した300年代前半、日本列島では依然として地域毎に諸豪族連合体が割拠し、連合体同士の抗争や、連合体内の内紛が続いていた。
  そして、その頃に北九州連合体国家(邪馬台国?)に主導権争いの内紛があり、反主流派が成立まもない加羅の勢力を引き込もうとし、加羅の王がその話に乗って、首尾よく時の盟主国(豪族)を倒し、北九州連合体の盟主の座を乗っ取った、というのが渡来の真相であろう。

  そのことを示唆するのが記紀の「天孫降臨神話」、即ち、天孫ニニギノミコトが高天原で降臨の支度をしていると、雲の中からサルタヒコなる者が現れ、自発的に道案内をつとめた、という話である。
  これを史実の投影とみるならば、サルタヒコに当たる列島側の勢力が加羅と内通し、加羅が北九州連合体の盟主の座を乗っ取るのを助けたということであろう。

  渡来王朝説というと、江上波夫氏の「騎馬民族説」が有名で、そのイメージから「元寇」のような大規模戦争を想像する人が多いが、この時の戦争は、内応者の手引きによる「だまし討ち」に近いものであって、加羅軍の兵力はせいぜい数百名、多くても2000名にも達しなかったはずである。加羅軍は特産の鉄製武器で武装しており、少数でも強かったはずであるから。
  また、魏志の記事から推定すると、当時の加羅(全羅道側を除く)の人口は7~10万人程度であり、最大動員可能兵力は5000名程度、それを全部渡洋作戦に投入してしまえば、留守中に新羅や百済に攻め込まれることは必定であって、そんな多数の兵を連れてこられたわけがないのである。
  また、当時は大豪族と言えど、居館の平時の警備兵は平時には50名にも満たなかったはずで、内応者の手引きにより夜陰に紛れてピンポイントで攻撃すれば、簡単に落とせたはずである。

  諸豪族連合体国家を形成する豪族達は、盟主となる豪族が強いから臣従しているだけで、より強い盟主が現れればそちらに靡いてくる。
  加羅王は、当時の盟主国を倒すことで豪族達にその武威を誇示し、この連合体国家の盟主の座を乗っ取ったのであろう。

  従って、この時の戦争は「元寇」のような大それたものではなく、源頼朝が天下を取る発端となった伊豆国守目代、山木判官兼高襲撃のようなものだと思えばよい。

  また、記紀ではサルタヒコは「天孫降臨の道案内などという余計なことをした」といってヒラブ貝に海に引き込まれて死んだことになっているが、君側でいい気になりすぎて、前代の主流派豪族達の恨みを買い、後に誅殺されてしまったということであろう。

4)王朝東遷と勢力拡大・・神武東征神話・日本武尊神話 

神武東征  このようにして首尾よく北九州連合体国家の盟主の座を乗っ取った加羅の王は、最初のうちは加羅と九州の間をいったり来たりしていただろうが、やがて日本列島の方が土地も広く、人口も多く、豊かなのを見て、九州の方に本拠地を移し、加羅には代理の者を置いて支配させるようになった。
  これが、「任那植民地」の起源であろう。
 
  また、ここで九州の兵力を掌握したことが、成立間もない加羅王朝に於ける王の立場を強化することにもなったはずである。
 韓国の学者の中には、「任那が倭の植民地だったのではなく、倭が任那の植民地だったのだ」と主張する者がいるが、この初期段階においてはそう言えなくもない。

勢力拡大  九州に本拠地を移した加羅の王は、九州の支配固めに数年か十数年かを要したであろうが、その間に日本列島内諸国の情報を集めるとともに、加羅から馬や鉄製武器を取り寄せ、配下の九州の兵を日本列島最強軍団に仕立てあげた後、350~370年頃に(おそらく吉備の勢力と連携して)日本列島中央の畿内に本拠地を移した。
  この事実を投影しているのが、記紀に於ける「神武東征神話」だと思われる。
  この際には数千・数万の大軍を率いた戦争もあったかも知れないが、これは九州の兵を率いて東上した将軍が加羅の王だというだけで、日本語を話す倭兵同士の戦闘であり、騎馬民族の日本征服戦争などではない。
 
  こうして、畿内に本拠地を移し、さらに大兵力を掌握した加羅王は、さらに数年から十数年かけて、出雲、関東、南九州の熊襲などの勢力を威嚇や軍事力行使やによって臣従させ、380年頃には九州から関東に至る倭人社会を統合する盟主となった。
 この地方勢力の服属化の事実を投影しているのが、記紀の「日本武尊神話」であろう。
 
  加羅から九州への渡来、九州から畿内への東遷、東遷後の地方平定には30~50年、二世代ぐらいはかかったのではないかと思われる。
  また、石上神社に現存する百済から「倭王」に送られた七枝刀は369年製と考えられるところから、この頃にはすでに百済からは「加羅王」というよりも「倭王」と見なされていたということであり、このころには畿内東遷を終えていたものと思われる。

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5)王朝の言語の交代

  ところで、王朝本拠地の九州移転・畿内移転の際に、一体何人の加羅人が日本へ移住してきただろうか?
  当時の加羅の人口は7~10万程度しかおらず、おそらく王・重臣やその家族と従者、兵士やその家族を合わせてもせいぜい2000~3000人、多くても5000人とは来なかったであろう。万単位の人口が移動してしまえば、新羅などに攻め込まれることは必定であるから。
 
  渡来してきたばかりの加羅人たちは当然加羅語(朝鮮語)を話していたはずであるが、その言語はどう変わっていくだろうか?
  武力による威嚇統治は脆いもの、武力を用いず配下の豪族の忠誠を得る最良の手段は、いつの世でも政略結婚であり、加羅渡来の王や重臣と倭人豪族との政略結婚が盛んに行われたはずであるが、その結婚で生まれた子供の言語はどうなるだろうか?
  娘が王宮に嫁いで人質代わりになることが多かっただろうが、乳母や侍女は実家から連れて行ったはずで、初期には生まれた子供は日本語と朝鮮語のバイリンガルに育ったはずである。

  また、兵士達(当然男)で独身の者は倭人の娘と結婚したり、加羅に妻子がいても現地妻を作ったりして、子供を産ませたであろうが、兵士達は王宮の警備などで家にいないことが多く、生まれた子供は母親の話す日本語の方が得意になってしまう。
  「家庭内で父親の言語と母親の言語が異なる場合、子供は接触時間の長い母親の言語をいち早く吸収する」というのは強固な言語社会学的法則である。
  また、両親ともが加羅人であったとしても、日本人との接触を人為的に断たない限り、子供は日本人の子供達の遊びの中から日本語を吸収し、日本語の方が得意になってしまう。
  「家庭内の言語と社会の言語が異なる場合、子供は社会の言語に強く染まる」というのも強固な言語社会学的法則である。

  それでも、まだ本拠地が九州にあり、兵士達でも容易に半島に里帰りできた時代に生まれた子供達は、日朝バイリンガルに育ったかもしれないが、畿内東遷後は王や重臣達でも容易に半島とは行き来できなくなり、日本語の方が得意、あるいは日本語しか話せない子供達がどんどん増えてゆく。
  そして、渡来から30年も絶つと、半島から直接渡って来た者達は老齢となって死に絶えてゆき、60年も経つとバイリンガルの世代も死に絶え、加羅経営や百済・新羅との外交担当の専門職以外は、朝鮮語は話せたとしても外国語(第二言語)として話せるだけになり、宮廷内でも日常は日本語しか使われなくなる。
  そうなれば、これはもはや加羅王朝ではなく、完全に倭王朝である。

6)朝鮮半島大攻勢・・高句麗好太王碑文・神宮皇后神話

  380年代には九州から関東に至る倭人社会を支配下に置いた加羅の王(既に「倭王」でもあるが)は、余勢を駆って故郷に錦を飾るべく、391年に倭兵の大軍を引き連れて朝鮮半島に攻め込む。
  高句麗好太王碑によれば、この倭軍大攻勢は404年に「和冦潰敗斬殺無数」と高句麗軍に大敗を喫するまで10数年も続き、「倭国及西南夷 銅頭大師 並献方物」とある413年までの間に、和睦が成立して倭軍は撤退した。
  この際に、王朝本貫の地、加羅の防衛のために、若干の倭兵を常時駐屯させる様にしたのが「任那日本府」と呼ばれるものであろう。

  この朝鮮半島大攻勢は記紀においては「神功皇后の三韓征伐」に投影されているのだと思われ、この大攻勢を主導したのは、応神天皇の「母」である神功皇后とされている。
  また、応神天皇は神功皇后が三韓征伐から帰って後、筑紫で応神天皇を生んだとされているが、応神天皇は(そして、この大攻勢を主導した王も)、王朝の渡来初期に半島側で生まれ育った人物であったのだろう。

  応神天皇は実在が確実視される最初の天皇であるが、日本書紀を見れば、応神天皇はむしろ文治主義的な人間であり、応神天皇自身がこの大攻勢を主導したとは思えない。
  恐らく、この大攻勢を主導した王は、応神天皇より一世代前の人間で、この人物が戦役中に戦死、もしくは病死したことで戦役は終結。
  後の豊臣政権が朝鮮出兵の失敗で天下の輿望を失い、徳川家康によってその政権を簒奪されたように、応神天皇も本来は王位につく立場にはなかったが、この大攻勢に失敗した王の正統な後継者から大王位を簒奪し、この戦役の収拾に当たった人物だったのではなかろうか?。 
 
  日本書紀を編纂した天武朝は、倭王朝・日本王朝の実質的な祖である応神天皇が王位簒奪者では具合が悪いので、この大攻勢の主導者は応神天皇の「父」ではなく「母」であることにして、応神朝の血統の正統性を主張しようとしたのだろう。

7)朝鮮半島への関心の低下と任那消滅

  この失敗に終わった4世紀末の朝鮮半島大攻勢以降も、663年の白村江の戦いに至るまで、倭は何度も半島に出兵しているが、倭が半島で積極的に勢力拡大を図ろうとしたのはこの時が最初で最後であり、以後の出兵は任那(加羅)防衛のため、同盟国百済救援のため、新羅に奪われた加羅奪回のためという消極的な形に変わっている。

  それは、この大攻勢を主導した王は恐らく加羅生まれで、自己規定としては倭人ではなく加羅人、日本列島の統一はあくまで朝鮮半島統一のための手段と考えていた王であったが、この戦役を収拾した応神天皇が最後の加羅生まれの王であり、仁徳天皇以降は大王も重臣も日本生まれ、日本育ちで日本語を母語とする世代に移り、半島権益には関心があっても半島に対する情緒的な思い入れがなくなっていったからであろう。

  応神天皇は前王(或いは前王朝)の半島出兵の失敗に懲りて、(当面は)内地優先政策に転換、「倭の五王」讃・珍・済・興・武に比定される仁徳(反正)天皇以降の大王は日本生まれの日本育ちであり、中国の南朝から「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」(宋書倭国伝)と半島進出を正当化する称号を得ているものの、武(雄略天皇)に至るまでは、半島での軍事行動は起こしていない。

  稲荷山古墳鉄剣銘の解読によって、倭王「武」に相当することが確実視される470年前後に在位の雄略天皇が、加羅から渡来してきた倭王朝創業期の最後の大王であると言える。
  彼は、 列島内に残っていた反体制勢力を全て平定するとともに、高句麗の南下に伴う同盟国百済の要請によって盛んに援兵を送って、高句麗や新羅と交戦し、474年頃には親征さえしようとするが、ト占によって「凶」と出たために、若干の援兵を送るにとどめた。(このために、476年に百済は高句麗によって首都漢城-ソウル-を落とされ、時の蓋鹵王は処刑され、一旦滅亡している)

  この雄略天皇(倭王武)彼の時代に、加羅を本貫とする倭王朝の日本列島支配は盤石のものとなった。
  彼が南朝に送った有名な上表文
「封国偏遠、作藩于外。自昔祖禰 躬甲冑 東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿」
(宋書倭国伝)

は、誇張はあるにせよ、330年頃~この470年頃までの150年ほどの倭王朝の歴史を端的に述べたものだといえるだろう。

  また、倭王「武」、和名「ワカタケル」と雄々しい名を持つ雄略天皇自身は、この上表文でも明らかなように、列島平定完了により、父祖本貫の地、朝鮮半島での勢力拡大にやる気満々であった。
  しかし、加羅渡来から150年、畿内東遷からでも100年以上、4~5世代も経ったこの時点では、加羅から付いてきた譜代の重臣達も世代交代によって完全に倭人化しており、 加羅・任那、朝鮮半島に残してきた権益には執着があっても、391年の大攻勢を主導した王やその重臣のような「故郷に錦を飾る」という意識はなく、いかな雄略天皇といえど、政権崩壊のリスクさえ伴う海外での大軍事行動を起こすことに、重臣達の賛成を得られなかったのだろう。

 479年の雄略天皇の死によって、大王自らがリーダーシップを発揮する倭王朝は創業時代が終わり、大伴氏、物部氏、蘇我氏等の老獪な重臣達が宮廷内での権力を争う守成の時代に入る。

  清寧朝以降は南朝への遣使・爵位要求も行わなくなり、朝鮮半島政策は「任那(加羅)の現状維持」だけが唯一の政策となる。
 それどころか、512年には五経博士の献上と引き替えに、任那四郡(弁韓・全羅道)を百済に割譲してしまう。(交通不便な山向こうの全羅道側支配は、加羅に本拠があった時代からもてあましていたのであろう)。
 これにより、「任那」とは王朝本貫の地、加羅だけとなる。

  また、百済・新羅は4世紀の建国後200年ほどの間に、諸豪族連合体国家から、中国の官制を取り入れた中央集権国家へと脱皮していたのに対し、加羅だけは統合の盟主が日本列島に遷ってしまったため、依然として自律性を保った諸豪族の連合体のままであった。故に新羅は個々の豪族を個別に調略し、532年には大豪族の「金官伽耶」までもが新羅に寝返ってしまう。

  そして561年、新羅は百済と同盟して高句麗と戦い、百済が476年に高句麗に奪われた京畿道を奪還するが、一転して新羅は百済を裏切り、その戦いの中で時の百済聖王は戦死、高句麗から奪還した京畿道を我がものにすると共に、返す刀で加羅に攻め込み、倭も援軍を送って防衛につとめるが、王を失って混乱する百済の援助が得られなかったために、翌562年、ついに加羅全土が新羅に攻め取られ「任那植民地」(実は倭王朝本貫の地)は消滅してしまう。
  時の欽明天皇は、自分の代で父祖本貫の地を奪われたことを恥じ、その死に当たって、皇太子(敏達天皇)に対し「任那回復」を厳命し、それは倭王朝の「国是」となる。

  その後50年ほどの間に、倭王朝は数回、任那回復のための軍事行動を計画し、実際に攻め込んだこともあるが目的は果たせず、629年に即位した舒明朝以降は、征討計画すらなくなってしまう。
  加羅渡来から300年近く、任那消滅からでさえ半世紀以上経たこの時点では、倭王朝は完全に「日本列島の王朝」と化しており、「父祖本貫の地任那(加羅)回復」は国是としては不変でも、もはやそのためだけに軍事行動を計画する政治イシューではなくなっていたのであろう。


8)加羅(倭)・百済・新羅の地政学的関係

  ところで、古代倭王朝はその時々で多少の揺れはあっても、ほぼ一貫して親百済・反新羅の姿勢をとり続けている。その理由は、史書などを読んでくだくだ論じるよりも、倭が加羅を本貫とする王朝であると考え、朝鮮半島の地形図で百済・加羅・新羅の位置関係を見ればすぐに解る。
  加羅と百済の間には小白山脈という自然国境があり、領土紛争は生じにくい。それに対し、加羅と新羅は魏志時代から同じ慶尚道(辰韓)で覇権を争うライバル関係にあったのだ。 百済地図   
  一方、百済の主敵は、半島の北部と南部を繋ぐ要衝の漢城(京畿道)を巡って争う北方の高句麗。
  従って百済と加羅の同盟は、ちょうど織田信長と徳川家康の同盟のように、背中合わせでそれぞれの主敵と対峙し、主敵と戦っている際に新羅や高句麗に背後を衝かれるのを防いでくれる地政学的な必然に基づくものである。
  加羅は前述のように魏志時代から小白山脈の西側の全羅道(弁韓)を支配下に置いていたが、交通不便な山向こうの言語法俗を異にする民衆の支配は、利益よりも負担の方が大きかったのであろう、512年にこれをあっさり百済に割譲している。(百済と全羅道の間には山岳地帯というよりも低い丘陵地帯があるだけで、それほど交通の不便はない)

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  従って、562年に新羅によって加羅が併合されたことは、倭王朝よりもむしろ百済にとっての安全保障上の大問題となる。
   腹中の敵・加羅がなくなった新羅が高句麗と結託すれば、百済は北と東から挟撃され、さらに西の黄海を渡って中国(隋・唐)が攻めてくる可能性もあり(実際に百済は新羅と唐に挟撃されて滅びた)、さらに倭の機嫌を損ねれば、倭が南から攻めてくる可能性もある。
  加羅(任那)を失った倭に「父祖本貫の地と言ったって、もはや何の権益もない半島の事などワシャ知らん」とモンロー主義に走られることは百済にとっては死活問題なのであり、加羅消滅後、百済は以前にも増して倭にすり寄り、王子を人質に差し出したり、倭が欲しがる財物や人材を提供して、倭がモンロー主義に走らぬよう、間違っても新羅陣営に走らぬように腐心した。
  倭王朝は成立以来、朝鮮諸国、特に百済から多くの文物・人材を摂取しているが、倭と百済の文化的関係は、こういう政治的関係に付随したものだということを念頭に置いておく必要がある。

  倭の方も加羅を奪った新羅陣営に着くことは考えられないが、武力による任那回復を半ばあきらめた600年代に入ると、百済と新羅の死命を制する立場を利用して、貢物競争をさせ、利を得ようとしていた様子がうかがえる。

9)東アジア国際情勢の変化と「白村江の戦い」

  663年、古代倭王朝の朝鮮半島への最後にして最大の軍事介入「白村江の戦い」が起こる。
  倭がこの戦いに駆り出される遠因は、316年の西晋滅亡以来、300年近く分裂状態にあった中国が、581年に隋によって統一、618年には唐にその統一が受け継がれ、隋・唐共に中国の東北辺を脅かす高句麗討滅に注力した、という当時の東アジア国際情勢の大変化にある。

高句麗地図   「高句麗」という王朝は本来は満州系民族が紀元前1世紀に建てた王朝であり、魏志の時代には鴨緑江以北、遼東半島以東の長白山脈の麓の山岳・丘陵地帯だけを版図とする小国に過ぎなかった。
 
  中国では220年に後漢が滅んで後、280年に西晋による統一までの三国時代に、戦乱や疫病によって人口が6000万人から1500万人まで激減しており、このため西晋王朝は統一王朝といっても弱体であった。
  高句麗はその弱体につけ込んで、313年に朝鮮半島北部の楽浪郡を滅ぼし、以後めきめきと力をつけ、満州の諸部族を支配下に置き、中国からは遼東半島を奪い、中国の東北辺を脅かす強大国となった。
 高句麗が朝鮮の王朝と呼ばれるのは、427年に楽浪郡都のあった平壌に首都を遷したからである。

 新羅版図 隋は統一後、598年から614年にかけて三次に亘り、最大100万の大軍を率いて高句麗を攻撃したが、高句麗は屈せず、この戦争による疲弊のために反乱が起こり隋の方が滅亡してしまった。
  隋の後を襲った唐も、644年から高句麗攻撃を開始したが、高句麗が屈しなかったため、唐は648年に新羅と同盟を結んで、長期に亘る持久戦に持ち込んだ。
  (新羅は加羅を滅ぼした561~562年の戦いで高句麗から京畿道を奪っており、この当時は直接高句麗に攻め込めたのである)

  窮した高句麗は654年に百済と同盟して新羅を攻め、一気に30余城を陥として京畿道を奪い返し、新羅の本拠である慶尚道に攻め込む勢いであったが、新羅は唐を動かして、唐が高句麗の遼東方面を衝く気配を見せたため、高句麗軍は防衛のために引き上げ、新羅はかろうじて滅亡を免れる。

  そして660年、逆に新羅が唐と同盟して百済を挟撃し、何より唐が18万と称する大軍を動員したため、百済の首都・扶余は陥落、時の義慈王は捕縛されて唐に連行され、百済王朝は一旦滅亡する。
  しかし、この時には百済全土が占領されたわけではなく、南部では鬼室福信という者を中心に、百済遺臣達が抵抗を続けており、遺臣達は倭に使者を送って、当時倭にいた「豊璋」という王子の返還と援軍を要請する。
  まさか、百済が滅亡するとまで思っていなかった倭(事実上の政権主宰者は中大兄皇子)は、慌ててこれに応じようとするが、なかなか軍備が整わず、博多に軍を集結するのは翌年夏になってしまう。そしていざ出撃という段になって、時の斉明天皇(中大兄皇子の母)が陣没してしまい、天皇の喪中に大規模な軍事行動を起こすわけにはいかず、中大兄皇子は豊璋に5000の兵を与えて百済に送るにとどめる。 
  百済に帰った豊璋は百済王を名乗り、当初は復興戦を有利に進めていたが、鬼室福信と反目するようになり、これを斬ってしまったため、せっかくの百済復興軍も弱体化してしまう。

  半島側の橋頭堡である百済の協力なしに、倭王朝の国是である「任那回復」は不可能であるため、中大兄皇子は天皇の喪が明けた663年に27000の兵を整えて半島に送る。
 しかし、倭軍は陰暦10月、首都扶余の奪回を目指した白村江(白馬江)の河口付近の海戦で、1000艘の軍船のうち400艘が炎上するという大敗を喫し、豊璋は高句麗へ逃亡、継戦余力を失った倭軍は、残存兵をまとめて半島から撤退、これを機に、抵抗を続けていた百済諸城も次々に降伏し、百済は名実ともに滅亡してしまう。
  なお、倭軍は撤退の際に、亡命を希望する百済の王族・貴族・官僚とその家族3000人以上を日本に連れ帰っており、この亡命百済人達こそが日本に「文化大革命」を起こす、という命題が本書最大のテーマなのであるが、それは次章以降にゆずる。

  新羅・唐連合軍は、668年には高句麗をも滅ぼし、300年以上続いた朝鮮の「三国時代」は終焉を迎えるとともに、倭王朝宿願の「任那回復」も完全に絶望となる。

  「白村江の戦い」は、このような中国を中心とする東アジア国際社会の長期に亘るパワーゲームの中の一つの戦いなのであり、古代倭国は東アジア国際社会の主要なアクターの一員であったのである。

10)記紀のフィクションと後の歴史の一致

  白村江敗戦の9年後の672年、天智天皇(中大兄皇子)の後継を巡って、天智天皇の弟の大海人皇子と、天智天皇の子の大友皇子の間で天下を二分する「壬申の乱」が起こる。

  この乱に勝利して覇権を掴んだ天武天皇(大海人皇子)は、「任那回復」が絶望となった現実を直視し、王朝のルーツである朝鮮半島との決別を決意。
  以後は日本列島のみを領土、倭人のみを国民として、律令制の導入によって国を「近代化」すると共に、国号を「日本」と改めて、加羅渡来の「倭王朝」との連続性を絶ち、さらには「古事記」「日本書紀」を書かせて、「日本王朝の祖は、日本列島を作ったイザナギ・イザナミの神であり、日本は神代の昔から日本列島の孤高の国」という神話を捏造したのである。
  律令制で絶対とされる天皇王朝は、実は加羅から渡来してきた王朝で、その本貫の地は新羅に奪い取られて回復できない・・・という情けない事実を隠蔽するために。
  (それでも、半島から渡来したという事実を示唆するような神話を残したのは、当時の現状において任那回復は無理でも、後代の情勢変化によってはそれが可能になる日が来るかもしれないからであり、事実、20世紀の日韓併合の際には、記紀の神話に基づく「日鮮同祖論」が唱えられている)

  このため、中国(唐)では古くから知られている「倭」と「日本」の関係が解らず、「旧唐書」では「倭國者古倭奴國也 日本國者倭國之別種也」と「倭」と「日本」が別の国として扱われている。

  「記紀」はこのように、日本王朝の前身の倭王朝が加羅から渡来した王朝であることを隠蔽するために書かれた「陰謀の書」なのであり、「日本は神代の昔から日本列島の孤高の国」というのは記紀が捏造したフィクションに過ぎない。
 
  ところが、奈良時代に律令制が軌道にのり、また入唐留学生達によって日本の文明水準が中国や新羅と遜色ないところまで上がると、日本は国際社会からの孤立政策を取り始める。
  779年には新羅への遣使を止め、834年には新羅商人の来航も禁止して完全に断交。遣唐使派遣は836年が最後で、894年には正式に廃止。
  その後唯一正式の国交を保っていた渤海も924年には滅亡。以後日本(王朝)は、なんと1868年の明治維新に至るまで、外国との正式の国交を持たない「日本列島孤高の国(王朝)」となる。即ち、記紀の描いたフィクションに後の歴史が一致してしまったのである。
  その間に、朝鮮でも中国でもめまぐるしく王朝が交代し、いつしか日本王朝の前身の倭王朝が加羅からの渡来王朝であることは内外で忘れ去られ、「日本は神代の昔から日本列島の孤高の国」という神話が内外で天然自然の理の如く信じられるようになったのである。


11)神皇正統記

  「倭王朝は朝鮮半島、加羅からの渡来王朝」という命題は、単に筆者の社会学的想像に基づくだけではない。歴史学的な資料的根拠として、1343年に北畠親房の書いた『神皇正統記』に 「昔日本は三韓と同種なりと云事のありし、かの書をば桓武の御代に 焼きすてられしなり」という文があるのである。
  同時代から500年以上も経った時点で書かれた文書ではあるが、北畠親房と言えば、天皇親政の「延喜・天暦の治」の再興を夢見て建武の中興を起こした後醍醐天皇の側近中の側近、国粋主義者もいいところであり、宮廷内の故実に詳しい国粋主義者の言うことであるから、逆にこの伝承の信憑性は高い。
  桓武天皇は奈良から京都へ都を遷した天皇として名高いが、焚書が行われたのは恐らく遷都の際で、引っ越しのために宮廷や豪族の家の倉庫の棚卸しをしたところ、忘れ去られていた倭王朝が半島からの渡来王朝であることを示す文書がぞろぞろ出てきたのであろう。
  桓武天皇は、生母の高野新笠が渡来系であったことが即位への障害になったと言われており、自らが「日本の大王」としてふさわしいことを示すために、これらの書類を焚書したのであろう。(記紀を書くための下地となったとされる『帝記』『旧辞』などの資料が失われたのもこの時かもしれない)

  教科書的な歴史観に馴染んだ方々には、筆者の言うことは俄に信じがたいかもしれない。
  しかし、律令制を持つ文明国家「日本」建国の契機となった白村江敗戦、その際に日本に亡命してきた3000人を越える百済人が、文明国家日本の建設に巨大な役割を果たしていたのであり、何より彼らがいなければ、古代日本の歴史や言語を伝える「記紀万葉」は書かれていないのである。
  その言語学的な証拠が「記紀万葉」の日本語表記法から発見された「上代特殊仮名遣い」という現象なのである。

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