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1)万葉仮名

  平安時代に入って、ひらがな・カタカナが発明される以前、日本語の発音表記は漢字音を借りて行われていた。
  また、前述のように、663年の白村江以前の僅かな文字資料に残る日本語は、漢文で書かれた文章の中に混じった日本語の人名・地名等の固有名詞だけであり、「日本語の文章」と呼べるものは皆無であった。

 漢字を用いて、日本語の単語だけでなく「文章」と呼べるものが記述されるようになったのは600年代末以降に作成された「記紀万葉」からであり、特に4000首以上の歌が収録されている万葉集が最大の資料であるため、 この漢字を用いた日本語表記法は一般には「万葉仮名」と呼ばれている。

 但し、一口に「万葉仮名」と言っても万葉集の日本語表記法は一律ではなく、主として三種類に分類できる。

①借音仮名表記:
   漢字の意味(訓)は無視し、漢字の音を表音文字のように用いる表記法

 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 
         伊与余麻須麻須 加奈之可利家理

ヨノナカハ ムナシキモノト シルトキシ イヨヨマスマス カナシカリケリ
万葉集巻五(通番793) 大伴旅人

『古事記』『日本書紀』に収録されている約200首の「記紀歌謡」はすべてこの表記法で記され、『万葉集』の四分の一ぐらいがこの表記法で書かれている。

②訓読主体表記:
   名詞や動詞・形容詞の語幹などの自立語に漢字を訓読みにし、助詞や活用語尾だけに借音仮名を用いる表記法

 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
ハルスギテ ナツキタルラシ シロタヘノ コロモホシタリ アメノカグヤマ
万葉集巻一(通番28) 持統天皇

『万葉集』で最も多い表記法がこれであり、現代の「漢字かな混じり文」の原型であると言える。
但し、この表記法では、「訓読み」の部分は「こう読んだ(発音した)のだろう」と推測できるだけである。

③完全訓読表記:
  全ての漢字を訓読みにする表記法

  水底 生玉藻 打靡 心依 恋此日
ミナソコニ オフルタマモノ ウチナビキ ココロハヨリテ コフルコノゴロ
万葉集巻十一(通番2482) 柿本人麻呂

 漢文訓読との違いは、漢文はSVOの語順で表記されるのに対し、この表記法は日本語のSOVの語順に従っており、上から順に読んでゆく。
 但し、この表記法では、この歌を本当にどう読んだ(発音した)のかは全く推測に頼る以外にない。
 この表記法が用いられるのは『万葉集巻十一』の「柿本人麻呂歌集」だけである。
 (これらを朝鮮語で読むとウラの意味があるという『人麻呂の暗号』(藤村由加)なるトンデモ本がベストセラーになったことがあり、筆者説をそれと同一視する人々がいて迷惑している)

 ②③の表記法では、文の意味がわかるだけであり、発音までは正確にはわからない。
 今日、奈良時代日本語の発音・語彙・文法などがかなり詳しくわかるのは①の借音仮名文書のおかげなのである。


2)上代特殊仮名遣いと上代八母音説

 上代特殊仮名遣い(じょうだいとくしゅかなづかい)とは
    一字一音の仮名表記で  「余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須麻須 加奈之可利家理」は「ヨノナカハ ムナシキモノト シルトキシ イヨヨマスマス カナシカリケリ」と読めると言っても、それは現代の漢字音に於いての話であり、古代の漢字の発音は違っていたかもしれない。

    そこで古代日本語の発音をより精確に推定するために、『記紀万葉』で「借音仮名表記」に用いられている漢字一字一字の発音を中国の韻書(漢詩を詠むための漢字発音辞典)に照らして分析していったところ、「キヒミケヘメコソトノヨロモ」の13音節(及びその濁音)の表記に用いられる漢字が、単語によって二種類の韻母(母音)に属する漢字で書き分けられており、互換性がないことが発見された。
 それが「上代特殊仮名遣い」という現象である。

   この二種類の漢字群を慣習的に「甲類」「乙類」と呼ぶ。
    (「甲乙」に価値的な意味はなく、明治末年にこの現象を発見した橋本進吉がそう呼んだのが慣習化しただけで、「1類」「2類」、「A類」「B類」などとしても構わない。)

具体的な例を挙げると

「ヨ(夜)」(甲類)・・「用/yòng/」「庸/yōng/」「遙/yáo/」
     現代語では/ヨウ/と発音される漢字

「ヨ(世)」(乙類)・・・「余/yū/」「与/yŭ/」「誉/yù/」
     現代語でも/ヨ/と発音される漢字

中国語でも発音の違いがある(//内は現代中国語の発音)

「ミヤコ(都)」の「コ」(甲類)
  「美夜古」「弥夜故」など様々なの書き方があるが、「コ」に当てられるのは「古」「故」「固」などの現代でも/コ/と発音する種類の漢字

「ココロ(心)」の「コ」(乙類)
    「己許呂」「許許呂」などこれも様々な書き方があるが、「コ」に当てられるのは「己」「許」「居」「挙」などの現代では/キ/・/キョ/と発音する漢字

そして、「ミヤコ」が「美夜許」と書かれたり、「ココロ」が「古古呂」と書かれたりすることはない

(オ段音の甲乙に当てられている漢字については第四章参照)

「カミ(上)」の「ミ」(甲類)
     「可美」「賀美」「賀眉」などの書き方があるが、多くは「美」が用いられる。

「カミ(神)」の「ミ」(乙類)
     「加未」「可未」「加微」「柯微」など「未」や「微」が用いられる。

故に「上」と「神」は別の語源だという説が出され、論争になった。

「上代八母音説」
 この現象は、「キヒミ」(イ段音)、「ケヘメ」(エ段音)、「コソトノヨロモ」(オ段音)に集中しており、そこから奈良時代以往にはイ・エ・オ段音には甲乙二種類の母音があり、全部で母音が八つあった」という説が唱えられ、現代でも「一応の定説」として、国語学の教科書に載っている。

甲乙書き分けの消滅・・8つあった母音が5つに減った?
 さらに、この現象の不思議なところは、文書を作成年代順に追っていくと、奈良時代中期、740年頃までに書かれた文書ではこの書き分けがキチンと守られていたのに対し、その後急速に混乱して区別がなくなってゆき、800年代、平安時代に入って、ひらがなやカタカナが発明される頃には消滅してしまうのことである。

 とすれば、上代八母音説からいうと、日本語の母音は奈良時代には8つあったが、平安時代には5つに減った、ということになってしまう。
 そして、これも「一応の定説」として、国語学の教科書に載っている。

 しかし、誰しもが上代八母音説、平安時代五母音収斂説に納得しているわけではない。
 奈良時代に8つあった母音が僅か50年ばかりで5つに減ったとすると、祖父母と孫では話が通じなかったことになってしまうが、どういう言語社会学的、言語生理学的メカニズムでそういう現象が生じるのか、説明がつかない。
 逆に、これは「書き分け」だけの問題で、奈良時代にも母音は5つしかなかったとすると、何故奈良時代には5つの母音が8つに書き分けられていたか、説明が付かない。

 かくして、この「上代特殊仮名遣」という現象は、明治末に発見されて以来、今日までの100年以上、「8つの母音が5つに減ったのだ」「いや、5つの母音が8つに書き分けられていただけだ」と大別2派に分かれての論争が続いており、未だに決着していない、「日本語史上最大の謎」とされている現象なのである。(筆者がその決着をつける)





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3)「上代特殊仮名遣い」の研究史

本居宣長と石塚龍麿
 この「上代特殊仮名遣い」という現象に初めて気づいたのは、実は江戸時代後期の国学者で『古事記伝』などを書いた本居宣長である。
 先に挙げた「ミヤコ」と「ココロ」の「コ」の書き分けの例は、宣長が『古事記伝』で取り上げている例である。
 但し、宣長は国粋主義者で、規則正しい五十音は大和民族の優秀さの証だと見なしており、それに反するこの発見は不愉快だったらしく、積極的に公表しようとはしなかった。
 その弟子の石塚龍麿という人物が、その研究を引き継いで『仮名遣奥山路』という本でかなりつっこんだ研究をしたが、何せ江戸時代のこと、殆ど話題にならないまま、その研究は埋もれていた。

橋本進吉による再発見
 明治末年、東京帝大教授の橋本進吉が、『校本万葉集』という本を執筆中にこの現象を再発見し、またその過程で本居宣長や石塚龍麿の先行研究があることにも気づき、これを「上代特殊仮名遣い」と呼んで発表したことから、この現象の解明は近代国語学の大きなトピックの一つとして脚光を浴びるようになり、有坂英世・池上禎三・大野透・大野晋・服部四郎等の次世代の国語学・言語学の精鋭がこの謎の解明に挑むようになった。

有坂秀世
 特に東京帝大で橋本の直弟子である有坂秀世が戦前から終戦後までこの「上代特殊仮名遣い」の研究に生涯を捧げ、有名な「有坂三法則」(後述)等の重大な発見をした。
 ただ、有坂は結核を患い、1年ほど私大の講師をした以外は公職につかず、昭和27年に43歳の若さで亡くなり、有坂の膨大な遺稿は昭和30年に金田一京助等の手によって『上代音韻孜』(三省堂)として出版されている。

服部四郎と松本克己
 戦後の1950~60年代、大野透・馬淵和夫・大野晋・金田一春彦等がこの研究に参入し、そこそこの進展はあったものの、基本的には橋本・有坂以来の「上代八母音説」の延長線上で大きな変化はなかった。というのは、国語学の研究方法は、一次資料に当たってデータを収集し、そのデータから得られた仮説をまた資料によって検証する、というものであるが、『記紀万葉』という同じ資料を同じ方法で何度分析しても同じ答えしか出てこないのであって、そこに「資料至上主義」の限界がある。
 この停滞状況に変化が起きたのは1970年代で、服部四郎・松本克己・森博達等の国語学外部の研究者の参入によるところが大きい。

 まず、言語学者の服部四郎が奄美大島の方言を研究していて、上代の「キヒミケヘメ」と同じような変音現象があることに気づき、『上代日本語の母音音素は六つであって八つではない』という論文を発表し、また相前後してこれも言語学者(本来はギリシャ語学者)の松本克己がこれを別の観点から支持する説を発表した。
 この「上代六母音説」は現在は半ば定説化しており、今日では「八母音説」に拘泥している者はあまりいない。

松本克己・森重敏の上代五母音説
 さらに、1975年に松本克己は余勢を駆って、オ段音の甲乙も「条件異音(conditional allophone)」に過ぎず、上代日本語も五母音であったという説を発表し、それを毎日新聞が「視野の狭い国語学者の世界に視野の広い言語学者が風穴を空けた」という論調で大々的に取り上げらたことから、大論争が起きた。
 その論調に痛くプライドを傷つけられた国語学者達は猛反発したが、松本説を論破するには至らず、今日まで松本五母音説を巡る論争は続いている。
 また、同じ1975年に国文学者の森重敏(もりしげ・さとし)も、「イ音加重説」というやはり五母音説を発表し、同時に「上代特殊仮名遣いは帰化人達の用字法」という斬新な見解を出した。(この点でのみ筆者説と共通する) しかし、肝心の「イ音加重説」の方に全く説得力が無く、今日森重説が取り上げられることは殆どない。

森博達の「日本書紀α群中国人記述説」
 また、上代特殊仮名遣いを直接のテーマとするものではないが、大いに関連する説として、1977年に中国語学者の森博達(もり・ひろみち)が「日本書紀α群中国人記述説」を発表し、センセーションを巻き起こした。
 『日本書紀』30巻を中国語専門家の目で見ると、正格漢文で書かれたα群と、漢文としての誤用の多いβ群に分けられ、正格漢文で書かれたα群は、660年の百済滅亡の際に、倭に救援要請に来た百済遺臣が手みやげとして献上された「唐人俘虜」106名の中にいた、続守言・薩弘恪という中国人が書いたとした。
 この説は非常に説得力があり、今日では殆ど定説となっている。
 さらに森は、上代特殊仮名遣いに関して、独自の観点から上代七母音説を唱えているが、こちらの方はあまり支持者がいないようである。

八母音説から六母音・五母音説へ
 このように、1970年代までは定説であった上代八母音説は廃れ(たといっても消滅したわけではない)、現在論争の中心は、服部四郎・釘貫亨・早田輝洋等の唱える六母音説と松本克己の五母音説の対立となっており、これも1990年代以降膠着状態で、専門外の学者は両論併記で見守っているという状況にある。(それを打破するのが本書である)

 さて、筆者の立場はというと、松本克己(及び森重敏)と同じ五母音説である。
 但し、筆者説は名前が「オ段甲乙条件異音説」で松本説と同じであるため、筆者説を松本説を継承したものと誤解する者も多いが、筆者に言わせれば松本説は「異音」(allophone)という概念の完璧なる誤解に基づく「トンデモ説」以外の何者でもなく、それを根底から否定する立場をとっている。(その理由は、本書の5~6章をちゃんと読めば誰でもわかる)

4)「記紀万葉を書いたのは日本人」は自明の理か?

 「奈良時代に6~8つあった母音が平安時代には5つに収斂した」「奈良時代から母音は5つで8母音は書き分けだけの問題」と論争を続けてきた国語学者達の陥穽は、両派とも「記紀万葉を書いたのは日本人(日本語ネイティブスピーカー」という命題を自明の前提としていることにある。

 実は、この「上代特殊仮名遣い」という現象を発見して世に広めた橋本進吉は『万葉集は支那人が書いたか?』という論文も書いており、一見自明に見えるこの前提に疑義を呈していたのである。
 しかし、その研究を受け継いだ次世代の国語学者達は、資料の分析に熱中するあまり、橋本のこの疑義には注意を払ってこなかった。

 しかし、森博達により、少なくとも『日本書紀』の半分は中国人が書いたことが明らかにされ、この前提が自明では無いことが明らかになった。
 では、「『日本書紀α群』以外の上代文献を書いたのは日本人」というのは自明の理だろうか?

 前章で述べたように、歴史学の方では「奈良時代以往の史はほぼ100%帰化人氏族」という命題は動かし難い定説なのである。
 森博達は、日本書紀β群を書いたのは、「山田史三手」という人物だと推定しているが、「史」姓なら帰化人に決まっており、中国人でないなら朝鮮人に決まっており、しかもこの人物は若い頃は僧侶で新羅に留学していたという。新羅に留学していたから朝鮮語ができたのではなく、朝鮮語ができたから新羅に留学して仏教を学んでいたのだろう。

 さらに、昨今の「韓流ブーム」とやらで、韓国語(朝鮮語)を学ぶ者が急増しているが、韓国語を勉強した者なら「八母音説」といえばピンとくるであろう・・・・・そう、朝鮮語には母音が八つあるのである!
 さらに、現在問題となっているのは、上代には/O/母音が二種類あったかどうかであるが、それを聞けばますますピンとくるであろう・・・そう、朝鮮語には/오/・/어/という、日本人には判別困難な二種類の/O/母音があるのである!

 しかし、これらのことはあくまで状況証拠であって、奈良時代の日本語の方に6~8の母音が無かったことの証拠にはならない。
 しかし、筆者は奈良時代日本語が現代と変わらぬ5母音であったことを証明する、完璧な証拠を発見した。
 それは、現代日本人(特に関西方言話者)は、上代特殊仮名遣いオ段甲乙書き分け法則と全く同じ法則に基づいて、二種類の/O/母音を「条件異音(conditional allophone)として発音し分けているという事実である。
 この事実は、日本人(日本語ネイティブスピーカー)なら誰でも、本書第六章の指示に従って、鏡を見ながら発音実験してみれば、確認できる。

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