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1.呉音・漢音・唐音・慣用音

1)『記紀万葉』の借音仮名は「呉音」と「慣用音」で読む

   日本語における漢字の「音読み」には、「呉音」「漢音」「唐音」「慣用音」という4種類の発音があり、漢和辞典を見れば○呉○漢○唐○慣などという印がついている。
   例えば、「行」という字には、「ギョウ」(「修行(シュギョウ)」)、「コウ」(「銀行(ギンコウ)」)、「アン」(「行燈(アンドン)」)という読み方があり、「ギョウ」が呉音、「コウ」が漢音、「アン」が唐音である。
  このうち、今日一番普及していて「普通の読み方」とされるのが「漢音」、次が「呉音」で、「唐音」「慣用音」は少数の漢字にしかない。

呉音・漢音
呉音と漢音での「万葉集」の発音
    『記紀万葉』で日本語表記に用いられている借音仮名は「呉音」及び「慣用音」で読む(発音する)と日本語らしく聞こえ、一番普及している「漢音」で読むと何を言っているのかわからない。


  例えば、万葉集巻五の大伴旅人の歌(通番793)は

   余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 
                伊与余麻須麻須 加奈之可利家理


呉音: ヨノゥナカハ ムナシギモゥナィトゥ シルトゥギシ
           イヨヨマスマス カナシカリケリ (「奈」は慣用音)
漢音: ヨドゥダィカハ ボゥダィシキボゥダィトゥ シリュウトゥギシ
           イヨヨバシュバシュ カダィシカリケリ

2)「呉音」「漢音」「唐音」「慣用音」に関する定説

   「呉音」「漢音」「唐音」「慣用音」の起源については、一般には次のように言われている。

   呉音: 「呉」というのは南京を中心とする揚子江河口南岸地方のことであり、河内王朝時代から日本と交流の深かった南朝の本拠地。 つまり、「呉音」は南朝と深い関係にあった5~7世紀の倭王朝時代にもたらされた南京を中心とする呉地方の発音を模倣したも、というのが一応の「定説」である(がこの章で筆者はそれを完全に否定する)

  漢音:奈良時代から平安時代(8~9世紀)にかけての入唐留学生によってもたらされた発音で、唐代の首都であった長安、副都であった洛陽での発音である「中原雅音」を、留学生達が既に発明されていた平仮名やカタカナで書き取り、それが辞書や教科書に載せられて広まったもの。

  ちなみに、漢詩を詠むための中国漢字の発音辞典である「韻書」は、唐代の601年に編纂された『切韻』(601年)という辞典を基本にしており、この『切韻』自体は現存していないが、後世に作られ、現存する韻書もこれを土台にして、改訂・増補したものである。
  そして、この『切韻』が模範としている発音が唐代の長安・洛陽の「中原雅音」であり、日本の「漢音」は、その時代の長安・洛陽での漢字の発音を表音文字で書き取ってきたのであり、「中原雅音」の最も客観的な資料であるとも言える。

  唐音:遣唐使が廃止され、日本と中国の間で正式の国交がなくなった宋代~清代に仏僧や商人などによってもたらされた発音であるが、この発音がある漢字は少ない。

 慣用音:中国語に照らすと間違った発音であるが、慣習的にそう発音され、定着してしまっているもの。例えば上の歌でも用いられている「奈」という字は、呉音では「ナイ」、漢音では「ダイ」であり、「ナ」と読むのは本来間違いなのだが、「ナ」という発音の方が定着してしまっている。

  そして、慣用音は別として、「呉音・漢音・唐音という発音の変遷は、中国に於ける漢字の発音の時代的変遷に対応したもの」と一般に理解されており、国語学者や歴史学者の多くはそれを前提にして上代特殊仮名遣いを語っている。
  しかし、この命題は何の言語学的根拠もない「俗説」であり、中国での漢字の発音にどれだけ方言差があるかを知らない者のタワゴトに過ぎない。

3)呉音・漢音・唐音は漢字の方言差
  広大な中国では、同じ漢字でも方言によって発音が異なり、同時代でも一つの漢字に何十もの発音が併存する。

  例えば、「日本」という漢字も方言によって発音が大きく異なり、現代ですら何十もの発音が併存しているのである。↓

「日本」
中国各地方言・朝鮮語の「日本」の発音
  聞いてお分かりのように、「日本」という漢字には、現代標準中国語とされる北京語の/リーベン/という 発音の他に、方言によって、/ズーベン/、/イーベン/、/リップン/、/ラップン/、/サプン/、/ヤップン/、/ジップン/、/ニップン/、/ザパン/など様々な発音が今日でも併存しているの。
 
  「漢音」での「日本」の発音は、/ニッポン/、/ジッポン/であるが、それに類似した/ニップン/、/ジップン/という発音は今日でもちゃんと存在し、(何故福建や台湾、客家語などの発音が日本の「漢音」に近いのか、その理由は後述)、英語の「Japan」に類似した/ザパン/という発音まで存在する。 

   「『日本』という漢字は、唐代には/ニッポン/と発音したが、現代までにそれが/リーベン/という発音に変化した」などという説は成り立たないことはこれだけでお分かりであろう。
  日本の「呉音」「漢音」「唐音」の発音の違いは、時代差というよりも日本人が手本とした漢字音の方言差なのである。

4)朝鮮語と中国各地方言音による万葉集の発音
        ・・・・「呉音」の元は呉方言音ではなく朝鮮音(百済音)

  さて、現代にも一つの漢字に実に様々な発音が発音が併存しており、定説通り『記紀万葉』に用いられている日本の「呉音」が、中国の呉地方の方言音を模倣したものであるならば、1300年の時を経ているとは言え、呉地方の方言音で「万葉集」でも発音させてみれば、他の方言音より日本語に近く聞こえるはずである。

  そこで、呉方言(上海や蘇州)を初め、中国18ヶ所の方言漢字音、及び朝鮮漢字音で万葉集の歌10首を発音する、という実験を行ってみた。

 まずは、これまで屡々取り上げてきた、
   万葉集巻五 大伴旅人の歌(通番793)
      余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 
                 伊与余麻須麻須 加奈之可利家理
を、中国各地方言漢字音、朝鮮語漢字音、日本の漢音・呉音で発音し、比較したものである。
世の中は
朝鮮語・中国各地方言音による
大伴旅人の歌
  
  (本書付録のCDには中国18ヶ所の方言音を収録してあるが、ここでは北京、洛陽(唐代の副都)、西安(唐代の首都)、南京(三国時代の呉の首都)、蘇州(代表的呉方言)、上海(呉方言の一つ)、杭州(呉方言の一つ)、広東語、客家語(日本を/ニップン/と発音する方言)、台湾閩南語、山東方言、朝鮮語(中国領内朝鮮族)、韓国語(ソウル出身者)、及び日本の漢音、呉音での発音に抄訳してある。 それぞれの地方の位置は、↓の地図を参照)

   お分かりの通り、呉方言(蘇州方言)で読んでもちっとも日本語らしく聞こえないが、朝鮮語(韓国語)で読めば、かなり日本語に近く聞こえる。
   また、中国諸方言の中では、俗説で日本の「呉音」の原型と言われている呉方言(蘇州方言)よりも山東方言の方が日本語に近く聞こえることがお分かりであろう。

  「この1首だけでは何とも言えない」という向きのために、韓国語・山東方言・北京語・蘇州方言(呉方言)・台湾閩南語・日本漢音・日本呉音に絞ってお聞かせしよう。

1.余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 
              伊与余麻須麻須 加奈之可利家理
2.烏梅能波奈 伊麻佐家留期等 知利須義受 
              和我覇能曽能尓 阿利己世奴加毛
3.宇奈波良能 意吉由久布祢遠 可弊礼等加 
              比礼布良斯家武 麻都良佐欲比賣
4.古非思家婆 伎麻世和我勢古 可伎都楊疑 
              宇礼都美可良思 和礼多知麻多牟
5.夜麻河泊能 伎欲吉可波世尓 安蘇倍杼母 
              奈良能美夜故波 和須礼可祢都母

韓国 山東
万葉集五首 韓国 万葉集五首 山東
蘇州 北京
万葉集五首 蘇州(呉方言) 万葉集五首 北京
客家 台湾
万葉集五首 客家語 万葉集五首 台湾閩南語
呉音 漢音
万葉集五首 日本呉音 万葉集五首 日本漢音

採録地

(その他全ての収録地に於ける万葉集10首の発音)
    ●地方別分類
    ●歌別分類


5)『東國正韻』等で補正した朝鮮語での発音   

 上の朝鮮語での発音は、「現代漢韓辞典」に載っている発音に基づくものである。
   第七章で詳述したように、朝鮮で表音文字『訓民正音(ハングル)』」が制定されたのは1443年、ハングルを用いて漢字の発音を記した最古の韻書が1447年刊行の『東國正韻』であるが、以後現代までの500年余の間に、ハングルの表記体系の変化(朝鮮語の音韻体系の変化ではなく)に伴って、漢字の発音も変化している。

  例えば、「思」「斯」などの字は『東國正韻』では/・/+/|/の二重母音で[sʌi]というような発音であったが、後代に「・」(アレア)という母音字が消滅したため、現代では/사 /[sa]という発音に変わっている。
  また、『訓民正音』『東國正韻』では無子音を表す「○」と、[ŋ] 音を表す「」は別の文字であり、「呉」「誤」「五」などの/오/音は[ŋo]というガ行鼻濁音のような発音であったが、後代この区別が無くなり、 「」で無子音と[ŋ] 音両方を記すようになったため、現代ではこれらの文字は無子音の[o]と発音される。


万葉補正
補正した朝鮮語での発音
 さらには、朝鮮漢字には現代にも中世にも「ノ乙類」「ト乙類」「モ乙類」に相当する/너 /・/더 /・/머/と発音する漢字はないといった事実があり、これらの知見によって補正すると、朝鮮語での発音はより日本語に近づけられる。

2.「呉音」の原型は朝鮮音、その原型は山東方言音

日本式「呉音」が定着したのは奈良時代後半以降

  さて、この万葉集の録音を聞いて、日本漢字の「呉音」の起源は、定説(俗説)でいわれる呉地方の方言音ではなく、「朝鮮音(百済音)」であることに異議を唱える者はいないだろう。
  (このことは、日本中国語学会・朝鮮学会で口頭発表を行ったが、異議を唱えた者は一人もいない)

  但し、「呉音」は日本人が百済帰化人から発音を教わり、或いは日本人が百済帰化人の発音を模倣して定着したのではなく、白村江敗戦で大量亡命してきた百済人達の、日本語しか話せなくなった三世以降の世代の「日本語訛りの朝鮮音」が定着したものであって、言語的に純粋な日本人が自ら「呉音」による借音仮名を駆使するようになったのは、奈良時代後半、700年代後半以降のことと思われる。

  第二章で述べたように、663年の白村江敗戦以降に日本国内での文書作成量は激増し、「上代特殊仮名遣い」が現れる『記紀万葉』等の資料は全て白村江から100年以内に作成されたもの、また、白村江以前のごく僅かの金石文もそれらを書いていたのが帰化人であったことは言語学的にも歴史学的にも明らかなのであり、朝鮮語を母語として話せる世代が生き残っていた700年代前半以往に、日本人自らが「呉音」に基づく借音仮名を駆使していたという証拠は、言語学的にも歴史学的にも全くないのである。

  漢字の書き方や意味は、日本人でも先生について真面目に勉強すれば覚えられるが、日本語の音韻体系からはみ出した漢字の発音は簡単に覚えられるものではない。
  今日、日本の一流大学を卒業した知識人の持つ英語の語彙量は、イギリス人やアメリカ人の平均よりも遙かに多いが、いくら机上で真面目に勉強しても発音だけはネイティブと同じにならないのと同じである。
  今日、日本の英語教師が全てネイティブのアメリカ人だったとしたらどうか? 
  教師がいくら/write/、/right/、/light/と発音しわけても、それを聞き分ける耳を持たない日本人生徒は全て/ライト/としか発音できない。教師の方は「仕方ないな」と「黙認」はしても、そんな発音を「公認」したりはしない。 逆に生徒の方が「先生、日本語では write、right、light はみんな/ライト/でいいんですよ」と言ったところで、ネイティブ教師はそんな発音を模倣したりはしない。
  それと同じく、文字文明先進国の百済から来た百済語ネイティブ書記官が生きている間は、公式な借音仮名表記や漢文の作成は全て彼らに任せ、日本人自らが筆を執るのは、
   春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
といった、自立語は「訓読み」にし、定型化した助詞や活用語尾だけを「音読み」にする表記法だけだったと思われる。
   また、仮に日本人自らが用字した借音仮名文書や漢文があったとしても、今日に残るものは帰化人書記官達のチェックを受け、添削されたもののはずである。(上代特殊仮名遣いや漢文の「倭習(朝鮮習)」がそのことを示している)

   純粋な日本人が自ら「呉音」を用いて借音仮名表記をしたり、漢文を書いたりするようになるのは、700年代後半以降、帰化人教師自身が世代交代により言語的に日本人化してしまい、「日本語訛りの百済漢字音」を「公認」するようになってからのことであると考えられる。
  (そうでないという証拠は、言語学的にも歴史学的にも全くない)

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朝鮮漢字音は「朝鮮語訛りの山東方言音」

  さて、日本でいう「呉音」の原型は「朝鮮音(百済音)」であり、言語的に日本人化した白村江帰化人三世以降の「日本語訛りの朝鮮音」であることは間違いないが、朝鮮人(百済人)にとっても漢字は外来の文字であり、朝鮮音の原型になった発音体系がどこかにあるはずである。
   そして、中国各地方言音での万葉集の発音を聞いてお分かりのように、中国諸方言の中で一番日本語に近く聞こえるのは「山東方言音」であり、朝鮮漢字音は山東方言音を土台にしていると思われる。
   また、このことには地理的・歴史的根拠もあり、それについては後述する。

『日本書紀α群』記述者も恐らく山東方言話者

  中国語学者の森博達氏は、『日本書紀』30巻を正格漢文で書かれたα群と、非正格漢文で書かれたβ群に分け、α群は中国人の手によるとし、α群を書いた人物として、660年に百済から献上された106人の唐人俘虜の中にいた薩弘恪・続守言という人物を挙げている。
  そして、これらの正格漢文を書ける「唐人」が日本書紀完成前の600年代末頃に死んだため、朝廷はやむなく「山田史三手」という倭人(筆者説では百済帰化人)に続きを書かせたということである。

  ところで、薩弘恪や続守言は文章(書き言葉)に於いて正格漢文を書けたとしても、これまでの録音を聞いてお分かりのように、中国語の方言差は著しいものがあり、彼らが話し言葉に於いて唐代の標準語である長安や洛陽の方言を話していたという証拠はない。(例えば、関西方言話者である竹村健一氏や堺屋太一氏も文章は標準語で書いている)

  そして、薩弘恪や続守言もやはり山東方言話者であった可能性が大きい。
   というのは、彼らは660年に百済を滅ぼした唐軍の中にいた兵士であるが、中国から朝鮮半島に攻め込む軍隊の兵は、朝鮮半島に近い山東半島から徴発するはずだからである。(↓の地図参照。もっと近い遼東半島は、当時は高句麗の支配下にあり、兵の徴発は不可能である)

   この仮説を言語学的に証明するために、『日本書紀α群』と『古事記』の両方に収録されている4首の歌を山東方言で発音する実験を行ってみた。
   森博達説によれば『日本書紀α群』は中国人、筆者説によれば『日本書紀β群』及び『古事記』『万葉集』は百済帰化人が用字したものである。
   そして、百済帰化人が用字した『万葉集』の歌を山東方言話者が読んでもかなり日本語に近く聞こえるのであるから、『日本書紀α群』を書いた中国人が山東方言話者なら、もっと日本語に近く聞こえるはずである。
  『日本書紀α群』と『古事記』の両方に収録されている同一歌が4首あり(若干文言に違いがあるが)、両者を山東方言話者に読ませた実験が↓である。

日本書紀 古事記
山東方言 日本書紀 山東方言 古事記
  実際に聞き比べてみていかがであろうか?
  『日本書紀』の方が、より日本語に近く聞こえるというのが大方の感想であろう。

  さて、この日本書紀と古事記の発音比較は、筆者の「日本書紀α群山東方言話者記述説」を強力に裏付ける証拠を含んでいる。
餃子
山東方言の/キャ/・/ギャ/

  誰が聞いてもわかる山東方言の音韻的特徴は、やたらと/キャ/・/ギャ/・/キュ/・/キョ/という強烈な/ky/・/gy/音が目立つことである。→
  例えば、「餃子(ギョウザ)」という食べ物は、第一次世界大戦で日本がドイツから山東省の青島を獲得した後に日本にもたらされ、広まったものであり、この「ギョウザ」という言葉は山東方言を模倣したものである。

  そして、百済人が用字したと思われる「古事記」(及び前掲の「万葉集」)の山東方言での発音を聞くと、やはり/カ/の「加」/キャ/、/ガ/の「賀」/ギャ/、/ク/の「久」/キュウ/など、強烈な/ky/・/gy/が耳に付く。
  ところが、「日本書紀」の方では、/カ/には「柯」、/ガ/には「我」、/ク/には「倶」「矩」などが用いられ、/コ/に用いられている「挙」「居」以外は、/ky/・/gy/音はあまり聞こえない。
  要するに、山東方言にも日本語の/カ/・/ガ/・/ク/など近い発音の漢字があり、それがある場合には、用字者は/ky/・/gy/音の漢字は避けているということであり、この用字者とされる薩弘恪・続守言などが山東方言話者であった可能性は高い、ということになる。
  (このことを否定するには、同じ「日本書紀α群」の発音実験をして、山東方言以上に日本語に近く聞こえる方言を見つけだすしかないが、筆者が既に行っている「万葉集」の発音実験により、そういう方言が存在する可能性は低いことはお分かりであろう)

  いずれにせよ、百済人が用字した「万葉集」「古事記」 の歌を、中国語の中では山東方言話者が読んだ場合に一番日本語に近く聞こえる、という事実は「朝鮮漢字音の土台は山東方言音」 という命題の正しさを裏付けている。
  そして、このことは山東半島と朝鮮半島の地理的・歴史的関係からも裏付けられる。

山東・遼東・楽浪郡と朝鮮半島

   現代の世界地図・中国地図を見て、古来から朝鮮と中国の国境は鴨緑江で、漢民族と朝鮮民族は鴨緑江を挟んで隣り合わせに住んでいた、などと勘違いしている人が多くて困るが、古来鴨緑江の向こうは中国ではなく「満州」であり、そこに住んでいたのは中国語を話す漢民族ではなく、満州語を話す満州人なのであって、ここに漢民族が多数住み始めたのは19世紀以降のことである。

山東・朝鮮
山東・朝鮮・日本の位置関係と交通

    遼東半島を除く満州(遼寧省・吉林省・黒竜江省)は、漢民族がな中華世界と夷荻の世界との間に人為的に引いた境界線である「万里長城」の外にあり、前近代において漢民族の王朝がこの地域を版図に収めたのは、7世紀後半、唐が高句麗を滅ぼした後の20~30年間と、14世紀末~15世紀前半、明の永楽帝時代の数十年間に過ぎない。
   中国最後の王朝である清朝は、その満州人(女真人)が興した王朝であるが、清朝は満州の尚武の気風が損なわれることを恐れ、漢民族がこの地域に移住することを禁じていた。
   しかし、19世紀半ばにロシアが北方から満州の北辺を脅かすようになったため、防衛の為に清朝はこの禁を緩め、満州開発に力を入れるようになり、以降漢民族の満州移住が盛んになった。
   そして、満州、特に遼東半島以北の吉林省や黒竜江省への漢民族の移住が本格化したのは、ロシアが1904年にシベリア鉄道の支線である「東清鉄道」を遼東半島先端の大連まで敷設、日露戦争(1905年)によって日本がそれを「満州鉄道」として獲得し、さらに 日本が1932年に「満州国」という傀儡国家を建てると、中華民国政府は「既成事実」としてあっさりこれを認めている。(要するに、20世紀になっても漢民族は満州が中国の一部だとは思っていなかったのである)
   漢民族が遼東半島を除く満州を実効支配するようになったのは、第二次世界大戦で日本が破れ、満州国が消滅して以降、ここ数十年のことに過ぎないのである。
   現在の満州、特に黒竜江省は「中国の北倉」と呼ばれ、中国の小麦とトウモロコシの30~40%を生産する一大穀倉地帯として発展しており、現在の中国人・中国政府は「満州は中国ではない」などとは口が裂けても言わない。
  しかし、その発展は、ロシアが敷設し、日本が支線を張り巡らせた「満州鉄道」によって始まったのであり、それ以前には、面積こそ広大であるが、寒冷乾燥地帯で農業もロクに出来ないボロ地の満州など、漢民族は誰も欲しがらなかったのである。
  また現在、この東北三省には合計で1億人以上の人口がいるが、90%以上を漢民族が占め、本来の住民である満州族は800万人前後に過ぎず、それも血統上だけのことで、大半は中国語に同化してしまって満州語は話せなくなっており、満州語のネイティブスピーカーは近い将来存在しなくなると言われている。(日本に於けるアイヌ語と同じである)

遼東半島は中国の飛び地
   ただ、地理的には満州の一部であるが、黄海に突き出した遼東半島だけは、紀元前の昔から漢民族の支配地域であった。
   遼東半島は、対岸の山東半島から晴れた日には観望でき、黄海は平均水深44mしかない浅い穏やかな海で、山東-遼東には廟島列島という小さな島々が点在しており、原始的な筏や丸木船でも漕ぎ渡れたたため、山東半島から遼東半島への漢民族の移住は紀元前数千年、考古学時代まで遡り、満州系やモンゴル系の先住民を追い払った漢民族は、紀元前5世紀頃の戦国時代には、半島の付け根に長城(燕の長城)を築いて、満州系やモンゴル系民族の侵入を防いでいた。
   つまり、遼東半島だけは紀元前の遙か昔から満州に於ける「中国の飛び地」だったのである。

   紀元前の遙か昔に遼東半島を占領した漢民族は、その後背地の満州ではなく、鴨緑江を渡って朝鮮半島に向かい、半島西北部の大同江河畔の平壌を中心とする平安道(狭義の「朝鮮」に植民国家を作ったのであり、『史記』によれば中国人の植民国家「箕氏朝鮮」の建国は紀元前1122年の事だという。
   漢民族が満州に向かわなかったのは、燕の長城以北は、魏志時代には高句麗(小高句麗)の土地であるが、そこは「多大山深谷、無原澤。隨山谷以為居、食澗水。無良田、雖力佃作、不足以實口腹」というボロ地であって、農耕民族の漢民族には全く魅力がなかったからであろう。

   箕氏朝鮮の史実は疑わしいが、朝鮮半島西北部、狭義の「朝鮮」に古くから中国人の植民国家があったことは間違いなく、箕氏朝鮮は紀元前195年に燕からの亡命者である衛満に簒奪されて「衛氏朝鮮」となり、衛氏朝鮮は紀元前105年に漢の武帝によって滅ぼされ、その跡地は「楽浪郡」として以後の中国歴代王朝に直轄支配されるようになり、楽浪郡は東晋代の313年に高句麗によって滅ぼされるまで約400年間続いた。

楽浪郡中国人も山東-遼東方言を話していた

   さて、紀元前の遙か昔より、山東半島から遼東半島へ移住した漢民族は、当然山東方言を原型にした方言を話していたはずであり、その後も遼東半島と中国本土との交渉は、海路山東半島を経由して行われているのであって、事実山東-遼東の方言は似ている。
(但し、遼東半島は日露戦争以降、満州開発の拠点として中国各地からの移民が押し寄せたため、大連や瀋陽などの大都市では、標準中国語である北京語が話されている)
   また、その遼東半島からこぼれて、朝鮮半島西北部に侵入した漢民族が話していたのも、当然山東(遼東)方言だったはずであり、そこが中国直轄の楽浪郡となった後も、太守などの中央から派遣されてくる幹部は別として、楽浪郡土着の民間中国人たちが話していたのも山東(遼東)方言だったはずである。
  元は同じ言語(方言)を話していた集団も、分離し移住して相互に没交渉となれば、長年の間に大きな方言差を生じてくるものであるが、山東-遼東-楽浪郡の間では、異民族に囲まれた地理的環境から、常に濃密な人の往来があったのであって、それほど大きな方言差は生じなかったはずである。

朝鮮語訛りの山東方言音が朝鮮漢字音の原型

   楽浪郡は313年に高句麗に滅ぼされたが、その際に楽浪郡土着の民間中国人達はどうなったか?
   高句麗軍に殺された者、親戚を頼って遼東半島から大陸に逃げ戻った者もいるだろうが、逃げ遅れた者で、読み書きをはじめ、建築や工芸などに秀でた有能な者は、高句麗にそのまま雇われたり、南の三韓に逃れ、特技を生かして豪族達に雇われたはずであり、この楽浪郡から放出された多数の有能な人材が、高句麗やその後に建国された百済・新羅・加羅(倭)の文明化に大きく寄与したはずである。

  但し、楽浪郡滅亡後の半島中国人達の社会・言語環境は大きく変わる。
  植民地においては、宗主国人と現地人の居住区域は厳密に分けられ、宗主国人は現地人とは最小限の交流しかしないのが普通であり、また宗主国人は常に本国との往来が頻繁にあるため、何世代に亘って植民地に住んでいても、宗主国の言語を守り続ける。
  故に、植民地時代の楽浪郡中国人達は、楽浪郡に定住して何世代経とうと中国語能力を保ち続けていたはずである。

  しかし、高句麗や百済・新羅・加羅などの「雇われ人」となった楽浪郡中国人達は、現地人との交流を避けるわけにはいかず、また、朝鮮人豪族達との通婚によって混血も進み、2~3世代後には中国語能力を失い、朝鮮語しか話せなくなっていたはずである。
   この、朝鮮語が母語化した楽浪郡中国人の子孫の「朝鮮語訛りの山東方言音」が朝鮮漢字音の起源であろう。
   これは、白村江亡命百済人の子孫の「日本語訛りの朝鮮漢字音」が「呉音」として日本に定着したのと同じパターンであり、朝鮮では同じ現象が日本よりも350年ほど早く起こったのである。

   ただ、日本では「呉音」が定着してそれほど経たぬ平安時代初期に、当時の唐代「中原雅音」を元にした「漢音」という新たな発音体系がもたらされ、定着したが、朝鮮ではそのような現象は起こらなかった。
その理由は、
① 日本では平安時代初期に平仮名・片仮名という表音文字が発明されたが、朝鮮では1443年に『訓民正音』(ハングル)が発明されるまで表音文字がなく、別の発音体系を記録する手段がなかった
② 朝鮮・中国とも王朝が交替しても、朝鮮と中国の地理的関係は不変であり、常に朝鮮と中国の交流は山東・遼東を窓口にして行われていたのであって、朝鮮人が最も頻繁に耳にする「中国語」とは山東・遼東方言でありつづけた
③ 1443年に漸く表音文字のハングルが発明された時には、中国(明朝)の首都は北京に遷っており、韻書で正格発音として尊ばれている「中原雅音」は首都の中国人ですら発音していなかった(むしろ、北京語と山東方言は、中国八大方言の中では同じ官話方言系に括られる近い方言である)

   もちろん、楽浪郡滅亡から今日まで1700年もの時間が経っており、その間に山東・遼東方言も、朝鮮語も徐々に変化しているはずで、現代の個々の漢字をみれば、両者で発音が異なるものも数多くある。
   例えば、↑の山東方言特有の/ky/・/gy/音節の例で、朝鮮語で「餃」「校」「交」などの漢字を/キョ/と発音するのは、明らかに山東方言を踏襲したものと考えられる。
   一方で山東では「久」「九」などを/キュウ/と発音するのに対し、現代朝鮮語では/ク/と発音し、「久」は古事記・万葉集では日本語の「ク」の表記に盛んに用いられ、後の平仮名・片仮名の「ク」の元字ともなっていることから、朝鮮語では7~8世紀から既にこれらの字を/ク/と発音していたと見られる。
 
   このように、朝鮮漢字音は、個別に見れば他の方言の影響も見られるが、全体として山東方言音の基層にあるのは山東方言音であることは間違いなかろう。

  即ち、日本で言う「呉音」という発音体系の原型は、白村江亡命百済人達の朝鮮音(百済音)、その朝鮮音の原型は楽浪郡中国人の発音であり、その楽浪郡中国人の発音の原型は山東(遼東)方言音なのである。

「漢音」について

  平安時代初期にもたらされた「漢音」という漢字の発音体系については、もはや本書のテーマからははみ出す余談となるが、今回の万葉集の実験で興味深い結果があらわれたので、付記しておく。
  
  漢詩を詠むための漢字の発音辞典である「韻書」は、唐代(601年)に編纂された『切韻』が聖典とされ、『広韻』(1008年)その他の後代に編纂された韻書もみなこの『切韻』を増補改訂したものであるが、これらの韻書が「正統な発音」しているのが唐代の長安や洛陽の方言に於ける発音「中原雅音」である。
   そして、日本の「漢音」という発音体系は、奈良時代~平安時代初期の入唐留学生が、唐の首都である長安・洛陽での漢字の発音を表音文字の平仮名や片仮名で書き取ってきたものであり、故に「漢音」は、「唐代中原雅音」の最も客観的な資料だと言える。

   ということは、今回の万葉集発音実験で、日本語の漢音での発音に最も近い発音をする方言が「唐代中原雅音」の系統を引く方言だと考えられるが、漢音に最も近い発音をしていると思われるのは、意外や意外、長安(西安)や洛陽の方言ではなく、台湾閩南語であった。
  例えば、 「武」を/ブ/、「疑」「義」を/ギ/、「和」を/クヮ/、「須」を/ス/、「古」を/コ/、「美」を/ビ/、「奴」を/ド/と発音しているが、これらは他の方言ではあまり見られない。

  長安(西安)や洛陽は、遠く周代から中華文明の中心地(中原)で、全中国の都は長安か洛陽にあるのが正しく、漢字の発音は長安・洛陽の発音が正統とされてきたが、その長安・洛陽は安録山の乱(755年)以降治安が悪化、907年に唐が滅ぶと荒廃し、以後二度と全中国の都として返り咲くことなく今日に至っており、この唐末・五代の混乱時代に多くの住民が故郷を捨てて移住し、現在の西安や洛陽の住民は、首都が北京となった元代以降に流入してきて住み着いた者の子孫が大半であるため、その方言は北京語とあまり変わらない。

  唐代の長安・洛陽の住民の多くは、五代・北宋の首都である開封などに移住し、さらに開封が満州人の金に攻め落とされて江南の杭州に遷都した南宋時代には、杭州や、さらに南で当時はまだ未開であった福建・広東などに移住した者が多いため、福建や広東には唐代中原雅音の系統を引く方言が局地的に残っているとされ、↑の「日本」の発音実験で、これを/ニップン/と発音した福州方言や客家語、そして「閩南語」もその一つである。    

  「閩南語」というのは、廈門を中心とする福建省南部の方言であり、16世紀に始まった台湾への移民はこの廈門から送り出された者が多かったため、台湾最大の方言となっており、台湾の閩南語は単に「台湾語」とも言われる。
    廈門という 都市は、唐代の755年からの「安録山の乱」で中原(長安や洛陽)が荒廃した際に、中原から避難してきた人々が 先住民の「閩」を追い払って建てた都市であるため、ここの方言が唐代中原方言の系統を引いている可能性は十分ある。
   この「閩南語」にも4系統ほどの亜流があるそうで、これだけの実験ではなんとも言えないが、いずれにせよ福建省・広東省あたりの方言漢字音を、その都市・地方の歴史に照らしながら詳しく調べて行けば、日本の「漢音」のルーツに当たる発音体系が見つかるのではなかろうか。


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