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松本克己の上代五母音説

   1980年代以降の「上代特殊仮名遣い」を概説する書籍では、必ず松本克己氏が1975年に発表した「上代五母音説」が「画期的新説」「有力仮説」として言及されている。

   松本氏は本来ギリシャ語が専門の言語学者であるが、何故か「上代特殊仮名遣い」に関心を持ち、まだ「上代八母音説」が常識であった1975年に、勤務していた金沢大学法文学部の紀要において「上代五母音説」を発表した。

   その紀要論文を毎日新聞が文化面で「視野の狭い国語学者の世界に視野の広い言語学者が風穴をあけた」という論調で大々的に取り上げたことから、それに反発する国語学者との間で大論争が起こった。

   そして、当時の言語学界・国語学界の重鎮であった服部四郎氏や大野晋氏との論争にも負けなかったことから、松本氏の「上代五母音説」は「上代特殊仮名遣い」に関する画期的な新説との評価が定着し、松本氏の名は世間に広く知られるようになり、後に同氏が日本言語学会会長にまで登り詰めるきっかけとなった。

  それ以降今日までの「上代特殊仮名遣い」に関する学界での論争は、松本説の扱いを巡るものに集中していると言っても過言ではない。

  松本氏の1970年代以来の論考は、1995年に 『古代日本語母音論』(ひつじ書房)として出版されている。
(松本氏は1929年生まれであるが、2013年現在も存命中である)

  松本氏の「上代五母音説」は、まず「イ・エ段音の甲乙は語幹末尾の変音現象に過ぎない」として、上代に/i/・/e/母音が2種類あったことを否定するものであるが、服部四郎氏も同様の説を唱えており、目新しいものではなかった。

  松本説が注目を惹いたのは、イ・エ段音だけでなく、「オ段甲乙(松本氏の用語では「オ列甲乙」)も異音(allophone)に過ぎず、日本語の母音は上代から5つであった」としたことにある。

  松本氏同様、イ・エ段音の2種類の母音の存在を否定する服部四郎氏も、/O/母音の甲乙まで否定する松本説には懐疑的であり、「上代特殊仮名遣いというテーマの専門家」を自他共に認ずる国語学者達は、言語学者による国語学分野への「縄張り荒らし」に猛反発し、橋本・有坂以来の国語学の伝統「上代八母音説」を守ろうと躍起になるが、今日に至るまで松本説を粉砕できず、未だに松本説は「有力仮説」として生き残り、論議の対象とされている。
 
   筆者説も松本説と同じく「上代五母音説」、とりわけ「オ段甲乙条件異音(conditional allophone)説」であるため、屡々松本説を継承したものと誤解されるが、拙論は松本説とは全く異なるものである。 (但し、イ・エ段音に関する松本説は否定してはいない)

   では、筆者の目で見た松本氏の「オ段甲乙異音説」の評価は、というと「トンデモ説」の一言である。
   「トンデモ説」という俗語に相当する学術用語を知らないが、あえて言い換えれば「真面目に論評する値しない説」ということになろうか?

  「松本異音説はトンデモ説」としか言いようがないのは、キー・コンセプトである「allophone(異音)」の概念の完璧に誤解し、「allophone」でないものを「異音」と呼んで研究しているからである。
 
  何故松本説が「トンデモ」であるかは以下に詳述するが、松本説がトンデモであること以上に問題なのは、この説に猛反発し、さんざん批判しておきながら、それが「トンデモ」であることを40年近くも見抜けない国語学者達の方である。

  国語学者達がこの説をトンデモであると見抜けないのは、松本氏同様、いや、松本氏以上に「allophone(異音)」の概念が解っていないからである。
 
  松本異音説のどこがトンデモなのかは、本書第五章で説明している「異音」(allophone)・「条件異音」(conditional allophone)の概念さえちゃんと理解すれば、すぐにわかる。

1)松本の「母音交替説」

  松本氏のオ段甲乙に関する説を端的に言うと、

(上代語では) 同一語幹内にaとoは共存しない (前掲書p.51)
という説であり、

しかしながら、実際に上代語の語彙を点検してみると、CaCo、CoCaという音節構造をもった単語が、けっして数は多くないにしても、とにかく存在することは確かである。
(前掲書p.51 CaCoの「C」は子音(consonant)の意味)
としている。

そして、現実に存在するCaCo、CoCa型の単語は、

/クロ/(黒)は/クラ/(暗)の/ラ/が/ロ/に母音交替して派生した
/ホソ/(細)は/ハサ/(挟)の/サ/が/ソ/に母音交替して派生した
という風に、

通時的、ないし「形態音韻的」観点からは、”同一の”実体であると言わなければならない(前掲書p.60)
とし、そしてこれらは

共時論的には、同一音素の結合変異ないし「(変)異音」(allophone)という関係でとらえることもできよう。(前掲書p.60)
としている。

  何を言っているのかさっぱり解らないだろうが、要は/クラ/(暗)と/クロ/(黒)、/ハサ/(挟)/ホソ/(細)は元々は同じ単語であり、
  
   第五章で述べているように、「異音」(allophone)と「変異音」(phonemic/phonetic conditional variant)は別の概念である。

   例えば、/シロ/+/カワ/→/シラカワ/(白川)の/ラ/は、条件的変異の結果現れた「変異音」(phonemic variant)ではあるが、「異音」(allophone)ではない。

  「allophone」の「allo」という接頭語には、「allomorgh」(異形態)、「allograph」(異字体)のように、「他の・異なる・別の」という静態的な意味しかなく、「allophone」にも「(同一音素の範囲内で)異なる音・別の音」という意味しかないのである。
  それに「conditional」と修飾語がついて初めて、条件的変異現象(conditional variation)の結果として現れた異音(allophone)という動態的な意味が生じ、「条件的変異音」(conditional variant)の一種となる。

  但し、「条件異音」(conditional allophone)は「変異音」(phonemic/phonetic variant) の一種であるだけで、「変異音」とイコールではなく、 話者自身が聞き分けられない同一音素の範囲内での条件的変異音だけが「条件異音」(conditional allophone)である。

   訳語で言葉が似ているからといって、言語学者が「異音」と「変異音」の区別もついていないということは、理工学者にして「同位体」と「同素体」の区別が付いておらず、経済学者にして「営業利益」と「経常利益」の区別が付いていない、といったお話にならない低次元な誤解なのである。

2)松本氏が「異音」と呼ぶものは、「変異音」ですらない

  では、松本氏がどんなものをその「(変)異音」(allophone)と呼んでいるかと言うと、/クライ/(暗い)と/クロイ/(黒い)、/ハサム/(挟む)と/ホソム/(細む)、/カマ/(蒲)と/コモ/(菰)などの単語対が、母音が交替してできた「同じ音節の別の音声的現れ」、即ち「allophone」なんだそうである!!
 
  このような、誰でも聞き分けができ、しかも意味弁別に機能している音の違いを「allophone」と呼ぶかどうか、音声学をマトモに勉強した言語研究者に聞いてみればよい。
  「バカ言ってんじゃないよ!」とノータイムで一蹴されるだけである。
  (また、ノータイムで一蹴しない言語研究者がいれば、それは松本氏や国語学者と同様、音声学をマトモに勉強していないのである)

   しかし、ここでは、言語学になじみの薄い歴史学者や考古学者、一般読者のために、この「真面目に論評するに値しない説」を真面目に論評して差し上げよう。

  第五章で述べたように、客観的(音声学的)に異なる複数の音が、当該言語では「異音」なのか、「訛音」なのか、「別の音素」なのかは、
①当該言語の母語話者がこれを聞き分けられるかどうか
②その音の違いが意味弁別に機能するかどうか

である。

   母語話者には聞き分けられず、意味弁別にも機能しないのが「異音」(allophone)、聞き分けられるが意味弁別には機能しないのが「訛音」(non-standard pronunciatin)、聞き分けられ、意味弁別に機能するのが「別の音素」(other phoneme)である。

  さて①、身体知能の正常な日本語母語話者(母音が3つしかないと言われる琉球方言話者などは除く)で、/クライ/と/クロイ/、/ハサム/と/ホソム/、/カマ/と/コモ/を聞き分けられない者がいるだろうか?

   現代人は聞き分けられるが、万葉時代の日本人はこれらを聞き分けられなかったと言うなら、平安時代以降の日本人は何時から、どういう言語生理学的・言語社会学的メカニズムにより、これらの言葉を聞き分けられるようになったのだろうか?

  100歩譲って、万葉時代の人々はこれらの単語を聞き分けられず、平安時代以降の日本人・日本社会に、何らかの言語生理学的・言語社会学的な突然変異が起きて、これらを聞き分けられるようになったとしよう。

   しかし②、異音(allophone)は当該言語では何時如何なる場合にも意味弁別には機能しないのであるから、「暗い」と「黒い」、「挟む」と「細む」、「蒲」と「菰」が万葉時代には「異音」だったと言うなら、これらの単語対は「意味が似ている」のではなく、「完全に同じ意味」でなければならない。

  しかし、これらの単語対は、万葉時代からすでに別の意味である。

  現代では、「クライ(暗い)」は「dark」、「クロイ(黒い)」は「black」の意味であるが、万葉時代にこれらが「異音」であったとするなら、意味は全く同じであり、文脈に関係なく互換性があるはずである。

万葉集の巻20(4305)に

許乃久礼能 之氣伎乎乃倍乎 保等登藝須
                   奈伎弖故由奈理 伊麻之久良之母 
木の暗の 茂き峰の上を 霍公鳥 鳴きて越ゆなり 今し来らしも

という大伴家持の歌がある。
   借音仮名から見ると、当時は「暗」を/クレ/と発音したらしいが、/コノクレ/は「木陰」の意味で、これが「black」の意味とすると文の意味が通じない。
   また、「木の暗」/コノクレ/は当時の常套句だったらしく、これが訓読で書かれた歌も多数あるが、「木暗」(03/0260)、 「許能暮」(10/1875、「木乃晩」(03/0260)等、「暗」「暮」「晩」など、「dark」の意味はあっても「black」の意味は持たない漢字が用いられている。

それに対し、巻5(804)の山上憶良の長歌に

具漏伎可美尓 伊都乃麻可 斯毛乃布利家武
        黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ

という一節があるが、この/クロ/が「dark」の意味だと文の意味が通じない。
   また、訓読表記で書かれた歌の「black」を意味する単語は、「黒髪」「黒駒」などは殆どが「黒」の字が用いられ、たまに「玄」「烏」などのやはり「Black」を意味する漢字が用いられるだけであって、「dark」を意味する「暗」「暮」「晩」などが用いられることはない。

  従って、この当時から「dark」を意味する/クラ/(/クレ/)と、「black」を意味する/クロ/は異義語だったのであり、これらが「同一音素・音節の別の音声的現れ」などという理屈は通じない。

  語源論的に見て、/クラ/(暗)、/クレ/(暮)、/クロ/(黒)が同じ語源から母音交替によってよって派生した語だというならそうかもしれないが、これらが異音(allophone)だというなら「意味が似ている」のではなく、「完全に同じ意味」でなければならないのである。

  さらに、こんなものは音声学的な「異音」(allophone)でないばかりか、音韻論的な「変異音」(phonemic variant)ですらない。
  /シロ/+/カワ/→/シラカワ/、/ホン/+/タナ/→/ホンダナ/のように、音が変わっただけで言葉の意味は変化しないのが「変異音」である。

  音が変わることによって言葉の意味が変化するなら、それはもはや音声学や音韻論が扱うテーマではなく、「同一語源からの別の単語の派生」といった語源・語彙論の問題である。

   例えば、 同じ語源から母音が交替することによって、意味の近い別の単語が派生することは、/オワル/(終わる)と/オエル/(終える)、/カワル/(変わる)と/カエル/(変える)等、自動詞と他動詞の区別などでよく見られる現象である。
  しかし、こんなものを「異音」だの「変異音」だのと呼んだら笑われる。

   第五章で述べたように、聞き分けられるが意味弁別に機能しない「訛音 (の一部)」、例えば「ガ行鼻濁音」のようなもの、まで含めて「異音」(allophone)と定義する場合があり、「異音」(allophone)の定義には多少幅がある。
   しかし、既にお分かりの通り、松本氏は「訛音」を「異音」と呼んでいるのでもない。
   さらに「allophone」の定義を、出血大サービスして拡大し、音韻論的な「変異音」(phonemic variant)と同義としても、松本氏が「allophone」と呼んでいるものは「allophone」の範囲には入らない。

   母語話者全員が平然と聞き分けられ、意味弁別に機能している音の違いが異音(allophone)であるわけがないのであり、この説は「真面目に論評にするに値しないトンデモ説」以外の何者でもないのである。

   筆者が指導教授で、学生がこんな論文を書いてきたら、「松本君、君の耳では/クライ/と/クロイ/は聞き分けられんのかね? /ハサム/と/ホソム/は同じ意味なのかね?・・・音声学ちゅうもんを基礎の基礎から勉強し直して来い!」と頭ごなしに怒鳴りつけて、ゴミ箱に放り込むだけ! それ以外に何の必要もない。

   ところが、40年近くもあの手この手で執拗にこの説を粉砕を試みている国語学者達は、何故松本氏を頭ごなしに怒鳴りつけなかったのか?
   それは、「音声学概論」はおろか「言語学概論」程度の科目すら履修していない国語学者達は、松本氏と同様、いや、松本氏以上に「異音」(allophone)の概念が解っていないからである。

3)松本氏は「言語的外国人記述」を視野に入れていた!


   このように言うと、上代語が専門でない国語学者の中には「いや、異音(allophone)の概念なんて解っていたよ。ただ、俺の専門は○○論だから、松本説を詳しく知らなかっただけだ」などと言い訳をする者が必ずいる。

   確かに松本氏の本は、カントやヘーゲルの哲学書の如く、論述が非常に難解で、門外漢が一度や二度読んだぐらいでは、正しいか正しくないか以前に、何を言ってるのか、何を言いたいのかさっぱり解らない。
  しかも前半の48ページはイ・エ段甲乙音に関することであり、肝心の「オ段甲乙異音説」は49ページからであり、「ちょっとした興味」ぐらいで手を出した者は、そこにたどり着く以前に疲弊してしまい、途中で放り出すこと請けあいである。

   故にこの本の内容から、松本氏が「allophone(異音)」でないものを「異音」と呼んでいる」ことに気づくには、強固な意志と長い時間がをかけてこの本に取り組む必要があり、専門外で大して興味をもたぬ者なら、「話題になっていたから読むには読んだが、何を言ってるのかさっぱりわからなかった」という言い訳は認めよう。

   しかし・・・である。
   1980年代以降、上代特殊仮名遣いに関する概説本や教科書には松本説は必ず出ており、大学や大学院の授業でも教えられ、「松本説は条件異音説」、即ち「『記紀万葉』では(条件)異音が書き分けられていた」という説であることぐらいは、国語学者なら誰でも知っている。
 (松本説なんて全く知らない、などと言う者がいたら、その者は「国語学者としてモグリ」である)

   そして、たとえ聞きかじりでも、「松本説は(条件)異音説」ということだけさえ知っていたら、「異音の概念なんて解っていた。松本説を詳しく知らなかっただけ」などという言い訳は通用しないのである。

  もう一度言う。
  異音(allophone)とはどういうものか?
①異音は母語話者には聞き分けられない、
②異音は意味弁別に機能しない
そして、もう一つ、
異音を聞き分けられる者がいるとすれば言語的外国人だけ
・・・である。

  即ち、「『記紀万葉』では異音が書き分けられていた」と主張することは、「『記紀万葉』を書いていたのは外国人だった」と主張することと同義、「異音説と外国人記述説」は表裏一体なのであり、 「異音の概念は解っている」なら、松本氏がどういう音声・音韻現象を「異音」と呼んでいるかに関係なく、「へえ? 『記紀万葉』では異音(allophone)が書き分けられていたんですか? てことは、松本さんは『記紀万葉』を書いていたのは外国人だったと言ってるんですか?」と、それこそ条件反射的に聞き返すはずである。

   しかし、驚いたことに、この説が発表された1975年以来、初期に松本氏と論争した服部四郎や大野晋から、近年に松本説批判論文を書いている釘貫亨や早田輝洋に至るまで、さんざんこの説を叩いておきながら、最高のツッコミ材料であるこの質問を、松本氏にぶつけた人間は一人もいないのである!
  (ということは、日本言語学界の大御所である服部四郎すら「異音」の概念を理解していなかったことになる!)

  しかも・・・である!
  松本氏は実は前掲書の、91ページある主論文「古代日本語母音組織考」の最末尾のP.90において、こっそりと、

「もし顕著な変化が起きたとすれば、それはただ書記法の面においてだけである。そしてこの変化は、おそらく帰化人(あるいは少なくともバイリンガルな書記階層)の手によって成立したと思われるかなり人工的な書記体系の日本語への漸次的適合、つまり外来文化の土着化の一局面にほかならなかったのである。」と述べている。

   つまり、松本説もまた「上代特殊仮名遣い言語的外国人記述説(帰化人記述説)」だったのである!!

  こう言うと、この説を聞きかじりで知っているだけの者はもとより、かなり詳しく知っている者でさえ、「えーっ? 松本さんってそんなことも言っていたの?」と驚くであろう。

   この説が発表されてから40年近く、松本説を取り上げている概説本や論文は多く、ウィキペディアを初め、ウェブサイトでも松本説は盛んに取り上げられているが、筆者の知る限り、松本説が実は「言語的外国人記述説」「帰化人記述説」であるなどと書いてあるものはない。
   また、友人の国語学者に「松本さんは誰が『記紀万葉』を書いていたと言ってるの?」と聞いても、「いや、そのことについては何も言ってないと思う」と言う。

  故に筆者も、実は本書を出版するまで、該書にそんなことが書いてあることに気づいていなかったのである。
  そして、本書出版直後に、ある人からこの一文があることを指摘されて気づき、慌てて

「松本氏は奈良時代には日本人自身が日本語の条件異音を書き分けていたと主張しているが故にトンデモ説であると断じたことは、明確な事実誤認で、松本氏並びに読者の皆さんに深く陳謝致しますとともに、この発言は撤回致します」

という「お詫びと訂正」を挟み込まねばならず、そのまま再版するわけにはいかない羽目に陥った。

   後述するように、86ページまで読み進んだところで所期の目的は達したため、それ以上は読む必要はなくことを止めてしまったのである。
   しかし、概説本には書いてない、ウェブにも書いてない、国語学者も教えてくれなかった・・・・などということは言い訳にならない。
  原典に当たりながら、をちゃんと最後まで読まなかった筆者が悪いのであり、この件に関しては、松本氏と読者に対して深くお詫び申し上げる。

 

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  但し・・・である!
  筆者が松本氏と読者に対してお詫びしなければならないのは、この一文を読み落としたという「ケアレスミス」に対してだけであり、「しめしめ、やっと尻尾つかんだぞ! このチョンボを徹底的につっこんでやろう!」などと喜ばないで頂きたい。
  
  筆者は確かにこの一文は読み落とした。
  しかし、筆者は松本氏が外国人記述を視野に入れていることには気づいており、本文のp.215~217で「松本氏は『記紀万葉』を書いたのは中国人か朝鮮人?ぐらいには思っていたはずだ」とちゃんと述べているのである。

  筆者は概説本などにより原典に当たる以前から、松本氏が「異音」でないものを「異音」と呼んでることは大方解っており、故に「松本氏が何を異音と呼んでいるか」よりも、概説本にも書かれておらず、国語学者の友人も教えてくれなかった「松本氏は誰が異音を書き分けていたと言っているのか」の答えを求めてこの本を読んだのである。

  そして、難解な文章に苦しみながら、四日目に86ページまで読み進んだ時に次の文に出くわした。

   要するに「上代特殊仮名遣い」とは「音素体系と書記体系とのズレ」であり)
「音素体系と書記体系とのズレはある言語の表記のために外来の文字がはじめて適用される場合にしばしば起こる現象であって、特にその初期の段階にあっては、書記法が当該言語の音韻の体系に完全に合致することはむしろ稀であると言ってよい」

  そして、松本氏はその実例として、ギリシャ語にフェニキア文字が適用された際にギリシャ語の異音が書き分けられていた、という例(だけ)を挙げ、詳しく述べている。

  ここまで来て、筆者は「松本氏は外国人記述を視野に入れている」と確信を持ったのである。

  何故なら、このギリシャ語の例は、紀元前1000年頃、今から3000年も前の出来事であり、1300年前の「上代特殊仮名遣い」よりも遙かに古い例であって、確実なことなど解るはずがない。

  それに、「しばしば起こる現象」なら、もっと近い時代の他の様々な事例を挙げて自説を補強すればいいのに、松本氏は何故こんな大昔の事例一つにとどめたのか?

  それは、もっと近い時代の確実な例は、「ある言語の表記のために外来の文字をはじめて適用」したのが、当の外国人であることが史実としてはっきり解っているからである。

   例えば、近世・近代になって、欧米列強の東南アジアの植民地化が盛んになると、現地人の言語の記述のためにアルファベットが適用されるようになったが、フィリピンのタガログ語のアルファベット表記体系を作ったのは宗主国のスペイン人、ベトナム語はフランス人、マレー語はイギリス人、インドネシア(国)語はオランダ人であり、詳しく調べれば作った人物の名前までわかる。

   これも「高度な専門的知識」でも何でもなく、大学一年生が履修する「言語学概論」程度の授業で習う内容であり、言語学者を名乗る松本氏が知らない訳はない。
  
   故に松本氏は、3000年前にギリシャ語にフェニキア文字を初めて適用したのがフェニキア人だったことも解っており、『記紀万葉』の借音仮名表記法も、中国人か朝鮮人が日本語表記に適用したものだということも解っていた。

   しかし、そんなことを大っぴらに言うと、歴史学者や中国語学者、朝鮮語学者などを巻き込んで、そっちの方の議論が沸騰して面倒なことになる。

  なにより、ギリシャ語初め、印欧語が専門である松本氏は、中国語や朝鮮語のことは殆ど、或いは全く知らず、そっち方面からからつっこまれれば何も答えられない・・・・ (もし、松本氏が朝鮮語の音韻体系を知っていたら、/오/・/어/という2種類の/O/母音と、オ段甲乙の対応に気づかないはずがない)

  故に、そちらからつっこまれることを恐れ、3000年も前のギリシャ語の例だけに止め、外国語に疎い国語学者達が「母語話者自身が母語の異音を書き分ける表記体系を作った例がある」と勝手に誤解してくれることを期待したのであろう。

  このことは松本氏が前掲書の主論文「古代日本語母音組織考」に「-内的再建の試み-」という副題をつけていることもこのことを裏付る。

   松本氏の言う「内的再建」とは、「一つの言語の言語史を他言語との比較・類推で考えるのではなく、当該言語の内部から言語史を再構築していく」ということらしいが、これも、調べれば簡単にわかる上のような「ある言語の表記の為に外来の文字を適用したのは当該の外国人」という数多くの史実から読者の目をそらすための予防線であろう。

  そして、松本氏はこの91ページもある難解で長大な論文の最末尾に、申し訳程度にこの一文を載せてあるだけで、以後「帰化人記述説」に関しては、筆者の知る限り、今日に至るまで自説の抄訳や講演・シンポジウムなどの公の場では一切口にしていない。
  
  恐らく松本氏は、1975年にこの説を発表して大騒ぎになった直後は、いつ、誰に、「あんた『記紀万葉』を書いてたのは外国人だったと言ってるの?」とつっこまれるか、ハラハラドキドキしていたはずである。
   そっち方面からつっこまれれば、松本氏はたちまち答えに窮し、元々異音(allophone)概念を完全に誤解した「トンデモ説」なのであるから、すぐボロは出たであろう。
  (そんなことはない、と思うなら、今からでも遅くはないから、筆者説と関係なく、そっち方面から松本氏を追求してみればよい)

   しかし、「井の中の蛙、大海を知らず」とはまさに国語学者の為にあるような諺、日本語以外のことは何も知らない国語学者達は、まんまと松本氏の術中にはまり、1975年の発表から40年近い今日まで、さんざん攻撃しておきながら、最大のツッコミ材料である帰化人記述説には誰も気づかず、トンチンカンな支持や批判を繰り返してきたのである。

  「奈良時代には日本人自身が日本語の(条件)異音を聞き分け、書き分けていた」と言っている(思いこんでいる)のは松本氏ではなく、松本説を支持したり批判したりしている国語学者達の方
なのである。

  学問世界でこんな滑稽な図はめったに見られるものではない。

  要は、全くの純国産学問、ドメスティック学問の国語学の研究者達は、言語学者の松本氏が「異音」(allophone)などという概念を引っさげて自分たちの縄張りに侵入してくるまでは、こんな概念は言葉すら知らなかったのである。
  そして、松本氏の「縄張り荒らし」に猛反発しながら、キーコンセプトの「異音」の概念に関しては、松本氏のトンデモ理解を鵜呑みにし、松本氏の難解な論述と、資料を駆使する「玄人好み」の論議に目を奪われ、キーコンセプトの完全なる誤解に基づく答えが出るはずのない不毛な論争を30年も続けてきたのである。
  ところが、30年以上も経ってから、藤井某などという得体の知れない者がやはり外の世界からやってきて、「上代特殊仮名遣いは百済帰化人の用字法である。なぜなら日本人に日本語の異音は聞き分けられない。異音を聞き分けられるのは外国人だけだから」などと、訳のわからないことを言い出す。
   松本氏のトンデモ理解を通してのみ異音(allophone)という言葉を知った国語学者達は、キョトンとして、松本説支持者はもとより批判者までが、「藤井某とか言う奴が『日本人に日本語の異音は聞き分けられない』なんて言ってますけど、そんなことないですよね? 松本さん?」と松本氏にすがる。 
   ところが、その松本氏はすました顔で、「いや、私も最初から上代特殊仮名遣いは言語的外国人の用字法だと言ってますよ。ちゃんと本にそう書いてあるでしょ? あなた方が勝手に誤解しているだけ。この問題に関しては、私と藤井さんの見解は一致しており、文句があるなら、あなた方が勝手に藤井さんと議論してください」と、そっぽを向いて行ってしまう。
  松本氏の「トンデモ異音理解」に翻弄され、30年以上も舞台の上でさんざん踊らされた挙げ句、最後に出てきた外国人記述説問題では、当の松本氏によってハシゴを外され、取り残された国語学者達は茫然自失・・・

   ところで、前述のように松本氏の主論文『古代日本語母音組織考-内的再建の試み-』」が最初に掲載されたのは、1975年の金沢大学法文学部の「紀要」である。
   しかし、地方大学の紀要論文など、本人から抜刷をもらうか、国会図書館などの大きな図書館に行かない限り、一般人が読むことは不可能であり、その後の松本氏自身による抄訳や講演、他人の手による概説本などでは「帰化人記述説」には一切触れられていない。
   そのため、抄訳や概説本などでこの説を知った多くの人は、1995年にこの紀要論文を転載した(と思われる)単行本が出版されるまで、松本氏の「帰化人記述説」を知る術がなかったのは解る。
   
   しかし、この説の発表の翌年に開かれた大野晋・服部四郎との討論会を聞いたという人によれば、やはり三時間近い討論で「帰化人記述説」などという話は全く出なかったという。
  この当時なら、大野晋や服部四郎は紀要論文そのものを読んでいるはずであり、読んでいながら帰化人記述説にツッコミを入れなかったということは、ひょっとすると、この1975年の紀要論文には例の一文は書かれておらず、騒ぎが収まった後の1995年の単行本出版の際に、こっそり加筆された、という可能性も考えられる。(単行本には紀要論文をそのまま転載したとは書かれておらず、筆者も75年の紀要論文までは調べていない)
  お暇な方は、国会図書館にでも行って調べられたい。

   但し、もし例の一文が単行本でこっそり加筆されたものだったとして、それを以て「松本さんはズルい」などという批判をしても無駄である。

   異音(allophone)という概念をちゃんと理解している者なら、そんなことが書かれていようがいまいが、書いてあることに気づこうが気づくまいが、松本氏が外国人記述を視野に入れていることぐらいは解る、ということは、筆者がこのチョンボで身を以て証明したとおり。
   まさに「怪我の功名」とはこのこと、このチョンボは筆者説に対するのツッコミ材料になるどころか、筆者説の信頼性をますます高める結果に終わっているのである。

   つっこまれるのを恐れ、論文の末尾にこっそり書いてアリバイだけをつくり、あとは頬かむりしている松本氏が悪いのではない。 こんな簡単なことに気づかず、つっこまない国語学者達が悪いのである。
   こんな説で40年近くも外国語に疎い国語学者達を惑わし続けた松本氏が悪いのではない。国語学という井の中を世界の全てと思いこみ、外国語のことなど全く視野に入れていない国語学者達が悪いのである。

   言っておくが、松本説が帰化人記述説(言語的外国人記述説)であったからと言って、「松本条件異音説」が「トンデモ」でなくなるわけではない。上述のように、/クライ/と/クロイ/、/ハサム/と/ホソム/などが異音(allophone)だなどと言っているだけで十分に「トンデモ」なのであり、言語学説としては一文の価値もない。
   しかし、一方で「国語学」という学問が、「日本人の、日本人による、日本人の為の特殊な日本語研究」で、日本国内でしか通用しないローカル学問、ドメスティック学問に過ぎず、「地球人類一般の言語を扱う普遍的な言語学とは関係ない学問である」という事実を白日のもとにさらしたという点では、この説は値千金、まさに「イグ・ノーベル賞」ものである。

   なお、筆者は上代特殊仮名遣いに関する松本説の全てがトンデモだと言っているわけではなく、「オ段甲乙条件異音説」がトンデモだと言っているだけであり、イ・エ段音に関する説や、「オ段音単音節名詞には甲類が多い」といった発見は評価している。 
  まして、氏のギリシャ語学者・言語学者としての他の研究の価値をや、松本氏の人格を貶めるものではない。

   むしろ、筆者は松本氏には感謝している。
   氏がこんな説を唱えていてくれたおかげで、「上代特殊仮名遣い研究は自分たちの縄張り」などと自惚れている国語学者達の鬱陶しい反論は一切封じることができるからである。

   それでも、日本言語学会会長まで務めた人の説が「トンデモ」なんて信じられない、とおっしゃる方は、どうぞ松本氏に通報して、筆者を名誉毀損で告訴してもらってください。
   音声方面に詳しいまともな言語学者一人を証人として呼ぶだけで、法廷がこの説がトンデモであることを認定してくれます。

国語学者の無視・黙殺の理由

   筆者がこの「上代特殊仮名遣い百済帰化人記述説」を最初に公式発表したのは、2001年5月に神戸松陰女子大学で開催された「国語学会春期大会」であり、その際には200人ほどの聴衆がいた。
  (なお、この際の司会者は、松本説批判の急先鋒である釘貫亨氏であり、故に釘貫氏は「藤井游惟説なんて知らない」などという言い訳はできない)
  また、翌2002年10月にも東京女子大学で開催された「日本音声学会全国大会」でも発表を行い、この際も国語学者を中心に130~140人ほどの聴衆がいた。
  そして、両学会共に終了後は多くの見知らぬ聴衆が話しかけてきて激励を頂いた。
   故に、既に国語学者の中にも筆者説を知り、内心高く評価している者は数多くいるのである。

   にも関わらず、本書出版以後4年以上経つのに、国語学者達は、筆者の直接の友人すら筆者説を書評で取り上げたり、講演会やシンポジウムなどに筆者を招いたりして、筆者説を世に広める手助けをしてくれようとはせず、ほぼ完全な無視・黙殺を貫いている。
  (筆者説の支持ないし評価を公式に表明してくれている国語学者は、木簡と漢字音が専門の愛知県立大学教授の犬飼隆氏のみである)

   その理由は、要するにこの「松本説問題」 である。
 
  国語学者達は40年近くに亘ってこの説を目の敵にしておきながら、大学一年生が真っ先にならう異音・条件異音という概念さえマトモに理解しておらず、この説のトンデモさに誰一人気づかない・・・・
  それどころか、松本氏本人は気づいていて、つっこまれることを最も恐れていた「帰化人記述説」にすら、こっそりとであれ本に書いてあるにもかかわらず誰も気づかなかった・・・・
という「国語学」という学問自体の権威を失墜させる事実を、本書が暴露しているからである。

   筆者説を公式に認めるということは、「国語学」という学問自体の権威を失墜させるこの事実を自ら認め、天下に公表することになってしまい、故に筆者説を内心高く評価している国語学者も、筆者説を広める旗振り役となって「業界の裏切り者」のレッテルを貼られるのを恐れて口をつぐんでいるのである。

   筆者と親しい歴史学者、考古学者、中国語学者、朝鮮語学者、音声学者、一般の筆者説支持者の中には、「国語学者に受け入れてもらえるように、もう少し語調を和らげて、国語学者達の顔も立ててはどうか?」とアドバイスをくれる者もいる。
  しかし、筆者の側には、松本氏の顔を立てて譲歩・妥協する余地は多少あっても、国語学者の顔を立てて譲歩・妥協する余地など全くないのである。

  音声学は言語研究者必修の基礎科目であり、異音(allophone)や条件異音(conditional allophone)などという概念は、その初歩の初歩であって、「国語学者だから音声学には疎い」で済まされるものではない。
  100歩譲って国語学者が国語学の世界だけで活動しているなら、異音や条件異音という概念をどんなに誤解していようと、カラスの勝手で済まされるかもしれない。
   しかし、筆者が学会での口頭発表の後に論文を提出したのは、「国語学会」に対してではなく「日本音声学会」に対してなのである。

   ところが、あきれたことに音声学者のサークルであるはずの「日本音声学会」にすら異音(allophone)の概念をマトモに理解していない国語学者がわんさとおり、「奈良時代の日本人が日本語の条件異音を聞き分けられたかどうか、そんなことは資料をもっと細密に分析してみなければ解らない」というタワゴトが返ってくるのである!!
   
   「音声学会」に論文を提出してすらそんなタワゴトが返ってくるなら、筆者は一体何学会で論文を発表すれば良いのか?
   「国語学会」か?「言語学会」か?

  筆者が学会での論文発表を諦め、自腹を切って本を出版せざるを得なくなったのは、「言語学概論」「音声学概論」程度の科目すらマトモに履修していないくせに、図々しくも「音声学者」などを詐称僭称している国語学者達のせいなのであり、出版のために多大な費用と5年以上もの歳月を浪費し、さらにその間に生じた遺失利益は莫大な金額に昇っているのである。   
   これはもはや学問的次元に止まる問題ではなく、「資格詐称」「経歴詐称」という名の立派な「不法行為」であり、筆者は民法第709条に基づいて、謝罪と損害賠償を求めて日本音声学会と査読者を告訴できるのであり、「告訴しないでやっているだけありがたく思え!」という次元の問題である!!
  (なお、今のところ告訴しないでやっているだけで、今後も告訴しないとは言っていない。民事事件の控訴時効は不法行為発生から20年であって、まだまだ時効までには十分時間がある)
  
  国語学者が国語学の体面を保つために、いくら無視・黙殺決め込もうとしても、いつまでも続けさせはしない。

  異音(allophone)の概念など、大学一年生が入学直後の4月中に習う内容なのであって、予備知識など全くなくても、ビデオなどを用いて説明すれば一時間で誰でも理解でき、この概念さえ理解すれば、松本説が「トンデモ」であることもまたすぐに理解でき、これがトンデモであることに40年近くも気づかなかった国語学者達は、松本氏以上にトンデモであることもすぐに理解できるのである。

   国語学者が「国語学の方法論に則っていない藤井説など認めん」というなそれも結構。
   その代わり筆者は、歴史学者・考古学者、そして一般の読者達が「奈良時代の日本人が日本語の条件異音を聞き分けられたかどうか、そんなことは資料をもっと細密に分析してみなければ解らない」などというもっともらしいタワゴトに惑わされないよう、声を大にして国語学者達を罵倒し続けるだけである。

  さらに、筆者説が気にくわない日本の歴史学者や考古学者が国語学者と同盟して無視・黙殺を決め込んだとしても無駄である。
  筆者説は、日本の主権の及ばないところまで影響力を持っており、特に朝鮮海峡の向こうには、6000万人もの潜在的支持者がいるのであり、これが顕在化したら恐ろしいことになるということはおわかりであろう。

  筆者はすでにパンドラの箱を開けてしまったのであり、もはや元には戻らない。

   国語学者が最も傷つかない方法は、一切の言い訳をせず、率先して筆者説を受け入れ、雅量を示すことである。
   下らぬ意地やプライドを捨てて「確かに我々は異音の概念なんて全く理解していませんでした」と素直に認めれば、国語学的方法では研究しつくされ、今日殆ど研究する者もない「上代特殊仮名遣い」が、汲めども尽きぬ論文ダネの宝庫に変わるのである。

   歴史学者・考古学者・朝鮮語学者・中国語学者などの他学の研究者、一般読者・韓国人などsに包囲され、悔し涙を流しながら渋々認めざるを得ない状況に陥るのと、自ら率先して認めて雅量を示し、論文ダネの宝庫を手に入れるのと、どちらが得か、それは国語学者の判断に任せよう。

 

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