第六章・第七章での分析により、「上代特殊仮名遣い」とは、
朝鮮語を母語とする百済帰化人書記官たちが、
朝鮮語の音韻感覚で日本語の条件異音を聞き分け、書き分けたもの、ということはご理解頂けたと思う。
この第八章では「ダメオシ」として、朝鮮語・中国18ヶ所の方言漢字音で万葉集の歌を発音した実験を披露する。
これを聞くだけで、国語学界や日本史学界で自明の理の如く語られている
「日本漢字の呉音・漢音・唐音とは中国漢字音の時代的変遷に対応したもの」
などという説はなんの根拠もない俗説にしか過ぎないことはお分かりになるはずである。
(但し、この実験は「上代特殊仮名遣い」に関する予備知識を持たぬ者でも理解できる「余興」にすぎず、に過ぎず、筆者が「上代特殊仮名遣い百済帰化人記述説」の主たる論拠ではない。
拙論の主たる論拠は第六章にあるが、それを理解するには第四章のオ段甲乙音書き分け法則と第五章の条件異音に関する予備知識を必要とするため、時間制限のある学会・研究会・講演会などでは語りきれず、やむなく日本人なら誰でも解るこの第八章だけの紹介で済ませることが屡々ある。
故にネットでは、この万葉集の発音実験のことだけを聞きかじって拙論を持ち上げたり、批判している者を屡々見かけるが、そういう人間は「俺は藤井説はちゃんと読んでいない」と告白しているのに等しいのであって、第六章に関する言及のない論評は批判的なものはもちろん、肯定的なものでも無視されたい)
1)『記紀万葉』の借音仮名は「呉音」と「慣用音」で読む
日本語における漢字の「音読み」には、「呉音」「漢音」「唐音」「慣用音」という4種類の発音があり、漢和辞典を見れば○呉○漢○唐○慣などという印がついている。
例えば、「行」という字には、「ギョウ」(「修行(シュギョウ)」)、「コウ」(「銀行(ギンコウ)」)、「アン」(「行燈(アンドン)」)という読み方があり、「ギョウ」が呉音、「コウ」が漢音、「アン」が唐音である。
このうち、今日一番普及していて「普通の読み方」とされるのが「漢音」、次が「呉音」で、「唐音」「慣用音」は少数の漢字にしかない。
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呉音と漢音での「万葉集」の発音 |
『記紀万葉』で日本語表記に用いられている借音仮名は「呉音」及び「慣用音」で読む(発音する)と日本語らしく聞こえ、一番普及している「漢音」で読むと何を言っているのかわからない。
例えば、万葉集巻五の大伴旅人の歌(通番793)は
余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子
伊与余麻須麻須 加奈之可利家理
呉音:
ヨノゥナカハ ムナシギモゥナィトゥ シルトゥギシ
イヨヨマスマス カナシカリケリ (「奈」は慣用音)
漢音:ヨドゥダィカハ ボゥダィシキボゥダィトゥ
シリュウトゥギシ
イヨヨバシュバシュ カダィシカリケリ
2)「呉音」「漢音」「唐音」「慣用音」に関する定説
「呉音」「漢音」「唐音」「慣用音」の起源については、一般には次のように言われている。
呉音: 「呉」というのは南京を中心とする揚子江河口南岸地方のことであり、河内王朝時代から日本と交流の深かった南朝の本拠地。
つまり、「呉音」は南朝と深い関係にあった5~7世紀の倭王朝時代にもたらされた南京を中心とする呉地方の発音を模倣したも、というのが一応の「定説」である(がこの章で筆者はそれを完全に否定する)
漢音:奈良時代から平安時代(8~9世紀)にかけての入唐留学生によってもたらされた発音で、唐代の首都であった長安、副都であった洛陽での発音である「中原雅音」を、留学生達が既に発明されていた平仮名やカタカナで書き取り、それが辞書や教科書に載せられて広まったもの。
ちなみに、漢詩を詠むための中国漢字の発音辞典である「韻書」は、唐代の601年に編纂された『切韻』(601年)という辞典を基本にしており、この『切韻』自体は現存していないが、後世に作られ、現存する韻書もこれを土台にして、改訂・増補したものである。
そして、この『切韻』が模範としている発音が唐代の長安・洛陽の「中原雅音」であり、日本の「漢音」は、その時代の長安・洛陽での漢字の発音を表音文字で書き取ってきたのであり、「中原雅音」の最も客観的な資料であるとも言える。
唐音:遣唐使が廃止され、日本と中国の間で正式の国交がなくなった宋代~清代に仏僧や商人などによってもたらされた発音であるが、この発音がある漢字は少ない。
慣用音:中国語に照らすと間違った発音であるが、慣習的にそう発音され、定着してしまっているもの。例えば上の歌でも用いられている「奈」という字は、呉音では「ナイ」、漢音では「ダイ」であり、「ナ」と読むのは本来間違いなのだが、「ナ」という発音の方が定着してしまっている。
そして、慣用音は別として、「呉音・漢音・唐音という発音の変遷は、中国に於ける漢字の発音の時代的変遷に対応したもの」と一般に理解されており、国語学者や歴史学者の多くはそれを前提にして上代特殊仮名遣いを語っている。
しかし、この命題は何の言語学的根拠もない「俗説」であり、中国での漢字の発音にどれだけ方言差があるかを知らない者のタワゴトに過ぎない。
3)呉音・漢音・唐音は漢字の方言差
広大な中国では、同じ漢字でも方言によって発音が異なり、同時代でも一つの漢字に何十もの発音が併存する。
例えば、「日本」という漢字も方言によって発音が大きく異なり、現代ですら何十もの発音が併存しているのである。↓
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中国各地方言・朝鮮語の「日本」の発音 |
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朝鮮語・中国各地方言音による 大伴旅人の歌 |
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万葉集五首 韓国 | 万葉集五首 山東 |
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万葉集五首 蘇州(呉方言) | 万葉集五首 北京 |
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万葉集五首 客家語 | 万葉集五首 台湾閩南語 |
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万葉集五首 日本呉音 | 万葉集五首 日本漢音 |
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(YOUTUBEに飛びますので、表示に多少時間がかかります。)
他の五首は以下の通り
6.夜麻河泊能 伎欲吉可波世尓 安蘇倍杼母
奈良能美夜故波 和須礼可祢都母
7.宇流波之等 安我毛布伊毛乎 於毛比都追
由気婆可母等奈 由伎安思可流良武
8.和我世故我 可反里吉麻佐武 等伎能多米
伊能知能己佐武 和須礼多麻布奈
9.安之比奇能 夜麻伎敝奈里氐 等保家騰母
許己呂之遊気婆 伊米尓美要家里
10.和我保里之 安米波布里伎奴 可久之安良婆
許等安気世受杼母 登思波佐可延牟
5)『東國正韻』等で補正した朝鮮語での発音
上の朝鮮語での発音は、「現代漢韓辞典」に載っている発音に基づくものである。
第七章で詳述したように、朝鮮で表音文字『訓民正音(ハングル)』」が制定されたのは1443年、ハングルを用いて漢字の発音を記した最古の韻書が1447年刊行の『東國正韻』であるが、以後現代までの500年余の間に、ハングルの表記体系の変化(朝鮮語の音韻体系の変化ではなく)に伴って、漢字の発音も変化している。
例えば、「思」「斯」などの字は『東國正韻』では/・/+/|/の二重母音で[sʌi]というような発音であったが、後代に「・」(アレア)という母音字が消滅したため、現代では/사 /[sa]という発音に変わっている。
また、『訓民正音』『東國正韻』では無子音を表す「○」と、[ŋ] 音を表す「ㅇ」は別の文字であり、「呉」「誤」「五」などの/오/音は[ŋo]というガ行鼻濁音のような発音であったが、後代この区別が無くなり、 「ㅇ」で無子音と[ŋ] 音両方を記すようになったため、現代ではこれらの文字は無子音の[o]と発音される。
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補正した朝鮮語での発音 |
日本式「呉音」が定着したのは奈良時代後半以降
さて、この万葉集の録音を聞いて、日本漢字の「呉音」の起源は、定説(俗説)でいわれる呉地方の方言音ではなく、「朝鮮音(百済音)」であることに異議を唱える者はいないだろう。
(このことは、日本中国語学会・朝鮮学会で口頭発表を行ったが、異議を唱えた者は一人もいない)
但し、「呉音」は日本人が百済帰化人から発音を教わり、或いは日本人が百済帰化人の発音を模倣して定着したのではなく、白村江敗戦で大量亡命してきた百済人達の、日本語しか話せなくなった三世以降の世代の「日本語訛りの朝鮮音」が定着したものであって、言語的に純粋な日本人が自ら「呉音」による借音仮名を駆使するようになったのは、奈良時代後半、700年代後半以降のことと思われる。
第二章で述べたように、663年の白村江敗戦以降に日本国内での文書作成量は激増し、「上代特殊仮名遣い」が現れる『記紀万葉』等の資料は全て白村江から100年以内に作成されたもの、また、白村江以前のごく僅かの金石文もそれらを書いていたのが帰化人であったことは言語学的にも歴史学的にも明らかなのであり、朝鮮語を母語として話せる世代が生き残っていた700年代前半以往に、日本人自らが「呉音」に基づく借音仮名を駆使していたという証拠は、言語学的にも歴史学的にも全くないのである。
漢字の書き方や意味は、日本人でも先生について真面目に勉強すれば覚えられるが、日本語の音韻体系からはみ出した漢字の発音は簡単に覚えられるものではない。
今日、日本の一流大学を卒業した知識人の持つ英語の語彙量は、イギリス人やアメリカ人の平均よりも遙かに多いが、いくら机上で真面目に勉強しても発音だけはネイティブと同じにならないのと同じである。
今日、日本の英語教師が全てネイティブのアメリカ人だったとしたらどうか?
教師がいくら/write/、/right/、/light/と発音しわけても、それを聞き分ける耳を持たない日本人生徒は全て/ライト/としか発音できない。教師の方は「仕方ないな」と「黙認」はしても、そんな発音を「公認」したりはしない。 逆に生徒の方が「先生、日本語では write、right、light はみんな/ライト/でいいんですよ」と言ったところで、ネイティブ教師はそんな発音を模倣したりはしない。
それと同じく、文字文明先進国の百済から来た百済語ネイティブ書記官が生きている間は、公式な借音仮名表記や漢文の作成は全て彼らに任せ、日本人自らが筆を執るのは、
春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
といった、自立語は「訓読み」にし、定型化した助詞や活用語尾だけを「音読み」にする表記法だけだったと思われる。
また、仮に日本人自らが用字した借音仮名文書や漢文があったとしても、今日に残るものは帰化人書記官達のチェックを受け、添削されたもののはずである。(上代特殊仮名遣いや漢文の「倭習(朝鮮習)」がそのことを示している)
純粋な日本人が自ら「呉音」を用いて借音仮名表記をしたり、漢文を書いたりするようになるのは、700年代後半以降、帰化人教師自身が世代交代により言語的に日本人化してしまい、「日本語訛りの百済漢字音」を「公認」するようになってからのことであると考えられる。
(そうでないという証拠は、言語学的にも歴史学的にも全くない)
さて、日本でいう「呉音」の原型は「朝鮮音(百済音)」であり、言語的に日本人化した白村江帰化人三世以降の「日本語訛りの朝鮮音」であることは間違いないが、朝鮮人(百済人)にとっても漢字は外来の文字であり、朝鮮音の原型になった発音体系がどこかにあるはずである。
そして、中国各地方言音での万葉集の発音を聞いてお分かりのように、中国諸方言の中で一番日本語に近く聞こえるのは「山東方言音」であり、朝鮮漢字音は山東方言音を土台にしていると思われる。
また、このことには地理的・歴史的根拠もあり、それについては後述する。
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山東方言 日本書紀 | 山東方言 古事記 |
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山東方言の/キャ/・/ギャ/ |
現代の世界地図・中国地図を見て、古来から朝鮮と中国の国境は鴨緑江で、漢民族と朝鮮民族は鴨緑江を挟んで隣り合わせに住んでいた、などと勘違いしている人が多くて困るが、古来鴨緑江の向こうは中国ではなく「満州」であり、そこに住んでいたのは中国語を話す漢民族ではなく、満州語を話す満州人なのであって、ここに漢民族が多数住み始めたのは19世紀以降のことである。
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山東・朝鮮・日本の位置関係と交通 |
ところで、推古記遺文や『日本書紀』の中の朝鮮関係の記事の中には、人名・地名などを音写する際に、韻書に照らすと呉音とも漢音ともつかない奇妙な発音をする漢字が少数あり、それらは「古韓音」と呼ばれている。(古代朝鮮漢字音全てを「古韓音」と勘違いしている人間がいるので注意!)。
「古韓音」とは以下のようなものである。
「奇・宜」を/ガ/、「支」を/キ/(甲)、「挙・希・居」/ケ/乙、「巷・嗽」を/ソ/甲、「侈」を/タ/、「至」を/チ/、「蕤」を/ヌ/、「皮」を/ハ/、「俾」を/ヘ/甲、「明」を/マ/)、「移」を/ヤ/、「已」を/ヨ/乙/、「里」を/ロ/乙/
古韓音に関する通説は以下のようなものである。
中国文明は、遠く紀元前11世紀の周代から316年に晋(西晋)が匈奴に追われて南京に都を移すまで(東晋)まで、長安及び洛陽(中原)を中心として発展してきており、漢字の発音も中原での発音が標準とされ、それは後に「魏晋音」と呼ばれる。但しこの時代には韻書は作られておらず、魏晋音がどんな発音だったかは断片的にしか解らない。
316年に晋が中原を追われ、翌317年に都を南京に都を移して再建され(東晋)、以後南京が中国文明の中心となり、中原を含む華北を鮮卑族(モンゴル族)から出た「北魏」(北朝)、南京を中心とするか南は東晋から宋・済・梁・陳(南朝)が支配する「南北朝時代」となる。
250年以上経った581年に北魏から隋が南北朝を統一して、続く唐の時代には南京にいた文化人達も中原に戻ってきて、中原は再び中国文明の中心地として返り咲くが、鮮卑族の北魏に長く支配されていた中原の漢字の発音は魏晋音とは変化しており(という証拠はないが)、この唐代の中原音が『切韻』などの韻書によって記述、固定され、その後長く標準漢字音として重用されることになり、後に「唐宋音」と呼ばれる。
ただ、西晋が中原を追われた際に、古来の「魏晋音」は朝鮮や満州などの周辺諸国に広まっており、それら外国では中国国内での魏晋音→唐宋音の変化の影響を受けずそのまま魏晋音が保存された・・・それが朝鮮から日本(倭)に伝わったのが「古韓音」である・・・・という柳田邦男の「方言周圏論」ような考え方である。
しかし、筆者は「古韓音」とは楽浪郡中国人が、朝鮮語・満州語・モンゴル語・日本語など、中国語とは音韻体系の異なる言語の人名・地名などを記述するために用いた「当て字」であると考える。
縷々述べてきたように、楽浪郡は漢代から西晋代まで約400年間、朝鮮・満州・モンゴル・日本(倭)などの周辺の東夷・北狄に関する情報収集基地の役割を担っており、それらが話す中国語とは音韻体系の異なる言語を記述する必要があった。
日本の北海道の地名を見ればわかるように、明治政府はアイヌ語の地名を漢字で書くために「札幌」「色丹」「択捉」「稚内」「知床」「歯舞」等、常識では読めないかなり無理な当て字をしている。それでも日本漢字は訓読みがあるだけまだましで、音読みしかなければこの作業はかなり困難なものになっただろう。
楽浪郡の漢人たちも周辺民族の人名・地名を音写するのに当てはまる漢字がない場合、それに似た発音の漢字でごまかすしかなかった。その特殊な漢字音が楽浪郡の滅亡によって高句麗や百済に伝わり、さらに伽耶を経由して日本(倭)にもたらされた・・・・それが「古韓音」であると思われる。
その証拠が「日本国内で作られた最古の文章」の471年製とされる「稲荷山古墳鉄剣銘」にも用いられている「弖」/テ/の字の存在である。
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高句麗好太王碑 |
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稲荷山鉄剣 表 |
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稲荷山鉄剣 裏 |
これは中国漢字の「氐」/ティ/を左右反転した鏡文字であると思われるが、中国にはこの文字はなく、故に日本では長く倭字(和製漢字)だと思われていたが、この「弖」の文字は414年建立とされる高句麗好太王碑文にも用いられている。(このこと発見したのは考古学者の森浩一氏らしい)
この高句麗好太王碑は本来の高句麗の土地、中国吉林省集安市にあり、故にこの文字で音写されているの朝鮮語ではなく満州語の一方言である高句麗語である。
中国には無いこの文字が、高句麗語と日本語の両方に用いられているということは、それを書いたのは313年に滅んだ楽浪郡中国人の子孫であり、彼らは高句麗や三韓や倭に書記官として土着した後も、先祖が開発した「弖」を含む「古韓音」を用いる満州語や朝鮮語や日本語の音節の音写を継承したのだと考えられる。